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夕霧

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1 坂の上の施設


 地方都市からローカル線に乗り換え一時間半、そこは静かな山間の町。盆地特有の薄霧がかかる中、町全体を見渡せる緩やかな坂道を高瀬夕子は上っていた。その霧は、今の自分の心の中にも広がっている、そんな思いを抱えながら。
 
 高瀬夕子、二十六歳。今は亡き母親、志津子譲りの愁いを帯びた美しい瞳が印象的な娘だった。肩までの黒髪をさりげなく束ね、流行を追わない質素な装いからは、落ち着いた内面がうかがわれる。
 この坂道の上に、夕子が育った児童養護施設「富士見愛育園」があった。
 小さい頃は、この坂道を園の友だちと競って駆け上がったものだった。でも大きくなるにつれ、中身の増えたランドセルは重くなり、それを背負う道のりは、夏などは汗だくになり閉口したものだ。
 ある時、園を逃げ出した友だちを追いかけて駆け下り、転んだこともあった。母恋しさに飛び出したその子の気持ちは痛いほどわかった。でも、夕子はきっと母が迎えに来ると信じ、そのためにはいい子でいなければいけないと、子ども心にいつも思っていた。そのため、どんなに寂しい時でも沈んだ様子は見せず、笑顔で小さい子たちの世話に励んだ。
 そんな幼き日の思い出がいっぱい詰まったこの坂道を、昔の様々な光景とともに上り終えた。
 そして、久しぶりに園の前に立った。
 
 「富士見愛育園」という看板は、板の端が擦り切れ、字もかろうじて読み取れるほどに薄れ、見事なまでにその年季を物語っていた。当然、建物自体も相応の痛みようであることが一見しただけでわかる。それでもいまだ現役のようで、中からは子どもたちの声が聞こえてきた。
 来訪の声をかけると、職員らしき女性が顔を出した。夕子は、自分がここの卒園生であり、園長に面会したい旨を伝えた。
 その女性が奥に下がった間、夕子は久しぶりにかつて過ごした園の内部を見渡した。
 玄関の下駄箱も、その前に敷かれたすのこも、傷みが激しくかろうじて役目を果たしているようにみえる。ふと、下駄箱に自分の名が残っているのではないかと思ったくらいだから、あの当時から変わっていないのだろう。
 廊下の壁には、園児たちが書いたのだろう、先生たちの似顔絵が貼ってある。その中で夕子に見覚えがあるのは園長らしき老人の絵だけだった。懐かしげにそれに見入っているところへ、先ほどの職員が戻ってきた。
 彼女に促され、薄汚れたスリッパを履き、きしむ廊下を歩いた。園長室の前まで来ると、女性はこちらです、と言い残し急ぎ足で去って行った。忙しいのは容易に想像がつく、職員の数など当然足りないだろうから。
 
 明け放されているドアを入ると、古ぼけたソファーに座って新聞に目をやる老人の姿があった。
「園長先生、お久しぶりです。以前、こちらにお世話になっていた高瀬夕子です」
 そう声をかけると、その老人は顔をあげ、かけていた眼鏡を上にずらして訪問客を食い入るように見つめた。
「たかせゆうこくん……はて?」
 一呼吸置いて園長の表情がパッと変わった。
「おお、あの夕子ちゃんか、すっかり大きくなってわからなかったよ。小学生だったのだから当たり前か……本当に久しぶりだね。よく訪ねてきてくれた。元気でやってるかい?」
「はい。園長先生こそ、お元気そうで何よりです」
「いやいや、もうこの通り歳でな。昨日のこともなかなか思い出せないようになってしまったよ。
 でも不思議なもので、昔のことはよ〜く覚えていてな。そのおかげで夕子ちゃんのこともわかったんじゃ、とりわけ夕子ちゃんは利発で可愛くて、みんなの世話を良くしてくれてたからな。
 しかし、そんな夕子ちゃんをすぐにわからなかったのだから偉そうなことは言えんな」
 園長はそう言って豪快に笑った。
「まあ、寄る年波には勝てない、そろそろこの園も閉めようかと思っているところだよ」
「えっ、そうなんですか!」
「まあ、掛けなさい」
 そう勧められたソファーは、今ではあまり見かけない昔の診療所の待合室にあるようなものだった。そしてその見た目通り、座り心地は最悪だった。
「引き継ぐ方はいないのですか?」
「人もいなければ、建物もこの通りボロボロ、なのに入所希望の園児だけは後を絶たないという嘆かわしい現状だよ。
 というわけでここがなくなったら困る園児たちもいるし、わしも張り合いを失くし本当に呆けてしまいそうで……そう思うとなかなか決心がつかなくてな……もう一年、あともう一年と先延ばしで存続している状態だよ。
 ところで今日は何かわしに用事かい? こんなところまでただ懐かしいだけで訪ねてくることはあるまい」
 夕子は背筋を伸ばして、本題に入った。
「園長先生、私に弟がいるというのは本当でしょうか?」
 園長はハッとして夕子を見た。
「誰から聞いた?」
「やっぱり本当なんですね?」

作品名:夕霧 作家名:鏡湖