小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

短編集25(過去作品)

INDEX|1ページ/22ページ|

次のページ
 

カウントダウン



                 カウントダウン


 私は最近、よく本を読む。
 学生時代に、もっと読んでおけばよかったのにと思うのだが、時間的に余裕がある時の方があまり本を読まない。毎日の慌ただしい生活の中でのリズムとして本を読む。だから本を読む時間はいつも限られているのだ。
 それだけに集中して読むことができ、充実した時間を味わえる。その間だけは何もかも忘れて読書に集中するからで、それ以外の時間も集中している証拠である。
――充実した時間がこれほど短く感じるなんて――
 充実していると、それまでダラダラだった時間がどれほど無駄に長い時間だったか思い知らされた。目的もなく生活していることの虚しさはやがて寂しさへと繋がり、どうしようもない憤りを思い起こさせる。
 本を読むことの一番の意義は、
――自分の世界を作ることができることだ――
 と思っている。ビジュアルな世界にはない果てしない想像力、それが今でも根強くある限り、私のように本を読む人は決していなくなったりしないだろう。例え、その私の発想が作者の意図するところと違うものであったとしても、誰に文句を言われることもない。それぞれの育ってきた環境の違いから、作者の意図する情景をどうしても思い浮かべることのできない読者がいても、それは仕方のないことだからである。
 私が最初に読み始めたのは、青春小説と言われるジャンルである。テレビドラマ化された話を小説としても読む。ドラマのシーンがよみがえってきて、俳優の顔が目に浮かぶ。表情の細かいところまでも記憶にあり、喜怒哀楽を思い浮かべていると、自然に自分も同じ顔になっているのではないかと思えてくるから不思議である。
 脚本に忠実に小説化していることが、読みやすい原因なのだろう。
 小説の中の主人公に自分がなっている錯覚に陥ることもある。ドラマでは考えられないことで、まったく自分とは違うキャラクターの俳優が演じている主人公、映像では考えられないことでも文字だとありえるのだ。信じられない気持ちに包まれるが、暖かいものである。
 私は恋愛に向いているとも、ドラマの主人公のように熱くなれるタイプだとも思わない。少なくとも、私は自分では冷静なタイプだと思っている。もちろん、実際に恋愛をすればどうなるか分からないが、熱くなる時は、自分で分かるのだ。それだけに、
――決してあんな恋愛はできないだろうな――
 ブラウン管を見ている時には、間違いなくそう感じている。それだけにドラマは面白いのだ。だが、それが活字となるとまた違う。自分を主人公にして読んでいることなど往々にしてあったりする。それだけに嵌まってしまうと、一気に読んでしまう。ドラマだと、一週間待たなければいけないことも、本だとあっという間なのだ。それがいいのか悪いのか分からないが、自分を主人公にできる最大の理由はそこにあるに違いない。
 しばらくはドラマ化された本を読み漁ったが、今度は恋愛小説を少し読むようになった。ジャンルを変えた理由は、恋愛小説の方が、女性を中心に見た話が多いということである。
――男である私が知らない世界――
 同じ世界であっても、目線が違うだけで、まったく違ったものに思えてくる。しかも活字という想像力の世界。それだけに、いくらでも膨らむ想像力を楽しむことができる。
 想像力の乏しい人には向かないジャンルではなかろうか。男には信じられないようなドロドロとした世界が広がっていることもあり、特に嫉妬やヤッカミがテーマになっている小説も少なくはないだろう。
 私も最初は自分の知らない世界に魅せられていたりしたが、次第にそのテーマの重さを身に沁みて感じるようになると、読むのが億劫になっていった。恋愛小説はやはり女性の目から見たテーマ、禁断の世界が広がっていて、まるで昼メロのドラマを見ているようである。
 それから読むようになったのは、ミステリーだった。今でもミステリー中心に読んでいるが、ミステリーこそ読書の醍醐味だと思ったのは、サスペンスドラマを見てから原作を読んだ時だった。
 サスペンスドラマでは、俳優の個性がそのままドラマの主題に結びついたりするので、どうしても俳優の好き嫌いによって見方がかわってくることがある。しかし原作ではそんなことはない。自分の想像がそのまま生きるのだ。
――自分で見たり感じたりしたこと以外は信じない――
 という信念のようなものを持っている私は、想像力も、自分で見たり感じたりすることと同じだと思っている。逆に自分なりのオリジナリティがあるので、余計に魅力を感じてしまう。
 ミステリーにはいくつかの種類がある。人間を中心に展開されるヒューマンタッチの作品と、トリックや犯人の意外性をつく、本格ミステリーとに大きく分けると別れるのではないだろうか。
 しかし、ヒューマンタッチは別にして、これだけの本が世に出されているので、トリックと言われるものは基本的に出尽くしているという考えの作家もいるようだ。そのため、トリックを重視する作家であっても、人間ドラマをおろそかにできず、トリックもパターンを変えながらバリエーションを利かせることで、いかにも初めて開発されたような新鮮さを読者に与えなければならない、というものである。
 この意見には私も賛成で、そう考えながらミステリーを読んでいると、それなりに違った意味で興味が湧いてくる。
 だが、現代ミステリーを読み漁っていると、どうしても似たり寄ったりの内容にでくわしてしまう。同じ作家の作風で確立されているものであるならいいのだが、他の作家がおなじようなシリーズとして使っているのは、私には許せるものではなかった。作家同士での暗黙の了解が存在するのかも知れないが、読者にそんなことは分からない。
 たとえば、トラベルミステリーと言われるようなものは一人の作家の代名詞にもなっていて、今まで積み重ねてきた努力が作風として認められたその人にとってジャンル化されたもののはずである。いくら許可が出ているかも知れないとはいえ、
――一番最初に始めた人には、逆立ちしても叶わない――
 という考えを持っている私には、どんなに素晴らしい作品も色褪せて見えるだろう。偏見だと分かっているにもかかわらず思うのは、
――読書とはわがままだ――
 と思うからである。
 最初に開発した人の作品を読み漁っていたが、さすがに自分で開発してきたジャンル、そう思いながら読むと、ミステリーの醍醐味のようなものを感じさせられた。しかし、本当の醍醐味は、時代をさかのぼって読むミステリーであることに気付いたのは、少し経ってからだった。
 復刻版という形で、戦前から戦後すぐにかけてのミステリーが本屋に並んでいた。現代ミステリーと違い、表紙のカバーに使われている絵は、ホラーを連想させるような気持ち悪いものであった。サングラスに鳥打帽をかぶり、コートの襟を立てたような怪しげな男であったり、被害者なのか、全裸の女性の胸が真っ赤に染まり血糊がべっとりとついたような絵である。思わず表紙に惹かれてしまい、手にとって少し立ち読みをしていた。
――最初の出だしからして、気持ち悪い――
作品名:短編集25(過去作品) 作家名:森本晃次