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師恩

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“静かに!”藤野先生は厳しい顔をして、両手を挙げて力強く下ろした。つかつかと大股でまっすぐに周樹人の前に歩み寄ると、優しく両肩に手を置き、心を込めて言った。“周君、君には大きな志がある。しっかりと西洋医学を学びたまえ!”

(二)
机の上に置かれた電気スタンドの明かりの下で、増田渉が写真を見ている。……写真がアモイ大学の職員宿舎の部屋に変わり……中年の魯迅が明かりの下で筆を執り「藤野先生」の四文字を書く――
魯迅(独白):“藤野先生の思いやりと励ましは、私の心に刻まれていつも忘れることはない。仙台へ医学を学びに来る前の私は、ずっと孤独で、迷いの中で、常に何かを探し求めていた……”

「東京弘文学院」の正門前はたくさんの人で大いににぎやかだ。数十名の清国から着いたばかりの留学生は、長い辮髪、馬褂(マーグァ)という中国服で道行く人たちの目を引いていた。学校の教職員たちは、親切に秩序正しく、これらの新入生たちをそれぞれの教室に誘導している。
各教室で突然拍手が起こり、先に着いていた清国留学生たちが歓迎の意を表している。留学生たちはほとんど黒い制服を着ていて、日本の学生と同じように見えるが、ただ、帽子が高く盛り上がって滑稽である。帽子の下にぐるぐる巻かれた辮髪が隠されているためだ……“辮髪を隠している者”は“辮髪を首に巻き付けている者”を見て、互いにからかい合って笑ったりして、和やかな雰囲気だ。
ちょうどこの時、平らな帽子を被った学生が急ぎ足でやって来て、いくつかの教室の番号を見上げて確認するや、そのうちの一つにまっすぐ入って行った。教室内はたちまち静かになり、皆の視線は一様に怪しがって、やってきた学生の皆と違って平らな帽子にくぎ付けになった――
“はは! 僕の戸籍でも調べようってのかい?”この学生が素早く帽子を脱ぐと、さっぱりとした西洋式の短髪が露になった。
“わあ、辮髪がないぞ!”と驚いて叫ぶ者あり。
“中国語を話すくせに、辮髪がないなんて?”と嘆く者あり。
“常軌を逸した、奇妙なやつ――いったい何者だ?”心配そうにつぶやく者あり。
“君?君は周樹人じゃないか!”ひとり人込みから抜け出して飛び掛からんばかりに進み出て、こう言う者がいた。“豫(よ)才(さい)(魯迅の字)、紹興城東の許寿裳だよ!”
周樹人も大いに喜んで“寿裳だって?ずいぶん探したんだよ!”
許寿裳は周樹人の手を引っ張って教室を出ると、帽子を奪い取って樹人の頭にかぶせ、“君、命がいらないのか?”
周樹人は、平然と答える。“はは、どうして命がいらないものか、西洋医学を学んで帰って、千万の人々の命を救おうというのに……”
許寿裳は慌てて言葉を遮って:“大胆にも程がある!辮髪がなくて、どうやって帰国するんだ?”
“死ぬのが怖けりゃ帰国しないさ、帰国するからには死も恐れないさ!”周樹人は今度は許寿裳の手を引っ張って“行こう!肝の据わった女子に会わせてやろう。そうしたら君も男がどうあるべきか分るよ。”
“行くとも、女子なんかこわくない!”許寿裳はへへっと鼻で笑う。
(三)
東京神田の街角。通りには書店や大衆食堂が立ち並んでいる。
見上げると嬉しいことに、《紹興会館》の金字の看板が目にまばゆく映った。――力強い魏碑(北魏の石碑)の字体、梨の木に施されたぴかぴかの黄色い漆塗り。許寿裳は、見上げると生唾を飲み込んで、勇み足で入ろうとするが、周樹人に腕をつかまれて引き留められる……。
“いらっしゃい、いらっしゃい!”歯切れのいいお国言葉が会館の中から聞こえてきた。会館の女主人山本明日香が入り口で笑顔を振りまいて続々とやってくる若い留学生たちを迎えていた。明日香は粋な年増女で、けばけばしく厚化粧をして、媚びるような目つきであたりを見回している。道の向かい側に周樹人と許寿裳を見つけると、大いに喜んで、急いで呼びかける:“まあまあ!旦那さん、早くこっちへいらしてくださいな!”
“今行くよ、今行くよ!”周樹人は遠くから手を振って応える。 傍らの許寿裳が小声で:“肝の据わった女子って、あの人か?”
“まさか!見て驚くなよ!さあ行こう……”周樹人は許寿裳を連れて通りを横切り、紹興会館の正門の前に行った。
明日香:“周の旦那、今日はまたどんな風の吹きまわしかしら?”
周樹人:“はは、温かい東南の風邪が、紹興の若旦那を運んで来たよ”と言うと、振り返って許寿裳を指して“彼は許、「白蛇伝」の中に出てくる許仙の許、長寿の寿、衣裳の裳。”
“あれまあ、許、寿、裳、良いお名前ですこと!許仙と白娘子(バイニャンズ)(白娘子は白素貞のこと)は長寿でいつまでも相思相愛、お召し物は会館で洗いましょう、きっと心地よくお過ごしいただけますよ!
いらっしゃい、いらっしゃい、奥へどうぞ……”明日香はまるでワルツを踊るかのような足取りで前に立って進み、あっという間に、廊下の一番奥の“タタミ”敷きの日本間へ客を通し、目を細めてにこやかに、すぐお茶をお持ちしますと言う。
許寿裳は思いがけない歓待に驚いて、:“おお、こんなにもてなされては、泊まらないわけにはいかなくなるよ!”
周樹人はすかさず:“はは、ここの女主人は親切な人だから、自分の家にいるつもりでいいんだよ……”と言うや畳の部屋に置かれた座卓のそばに胡坐をかいて座り、手を伸ばしてポケットから煙草を一本取りだし、座卓の上のマッチで火をつけると、悠々とふかしながら:“おお、そうだ、君に聞きたかったんだが、紹興城南の「和暢堂(わちょうどう)」秋家の令嬢秋?(しゅうせん)卿(きょう)を知っているか?”
“知っている、知っているとも!”許寿裳は周の真似をして胡坐をかいて座るが、不慣れなために姿勢をあれこれ調節しながら、“和暢堂の深窓の令嬢秋?卿、そして、都の王家の若奥様だろう。聞くところによれば、女権獲得のために日本へ留学したとか?!”
“今は昔とは違うよ!”周樹人はいきなり煙草を一気に吸いこんで、ゆっくりと長く煙を吐きながら“秋家のお嬢様、とっくに秋瑾と名前を改めて、「鑑湖女侠」と号しているよ。君、会ってみたいか?”
許寿裳ははっと悟って、:“ああ――、さっき君が言っていた肝の据わった女子って、その人のことだね! はは、女仁侠なら女仁侠でもいいさ、同じ紹興人なら何も怖がることはないさ、会うよ!”
周樹人は灰皿に煙草を擦り付けて消すと、立ち上がって:“よし、じゃあ行こう――”
二人が部屋を出ると、女主人の明日香が茶器を捧げ持ってこちらに向かって歩いて来るところだったが、すぐ立ち止まった。
明日香は二人の様子を察して:“まあまあ! 若き英雄さんはせっかちだこと、そんなに急いでどちらへ?”
周樹人は片方の拳をもう片方の手で包む礼をして、:“おかみさん、恐れ多いお言葉! 若き英雄とはおこがましい、鑑湖女侠に会いに参ります。”
明日香はぷっと噴き出すと、:“ほほ!女仁侠秋様なら上の階においでですよ。来客中です。わたしがご案内しましょう。ちょうどお茶を届けますから、賑やかしに参りましょう!”

(四)
紹興会館の二階、雅やかな和室。
作品名:師恩 作家名:芹川維忠