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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 五、生命の章

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下・結び、ひらく・2、我



 眼下の腕は、まるで土の塊のようだった。
 上腕からきれいに切り離され、それは握っていた剣ごと地に落とされた。
 シエンはよろめき、残された左手で傷口を覆った。その指の間から、ぼたぼたと血液があふれ出る。
 翠緑の剣は持ち主を意思を切り離され、ただの石に戻されていた。
「ぐぅ……う……っ」
 シエンのくいしばった歯の間から、重い呻きがもれ出ていた。
 セトは黒曜の剣身の先にべたりと濡られた赤をふり払い、剣を地にさすと、抑えきれない喜悦をその口元にあらわした。
「似合いだな、シエンよ」
 言うとセトは地に転がる腕を踏みつける。作り物のように転がっていたそれが、呻きをあげたかに見えた。
「さて。次はどうしてやろうか」クククと喉で笑い、セトは言う。「肢を順に落としてやろうか。虫けらのように地を這うのはどうだ?」
 シエンは答えない。身をかがめ、ほとんどうずくまるようにしながら、うつむけた顔面の影から片目をおし開き、じっとセトを見ていた。
 いや、見ているのではない。興奮した獣のように荒い息づかいで、開かれたその眼ひとつが、ただ奥からギラギラとたぎっている。
 それはまるで彼ではなかった。彼の感情、常に自身の深いところに押し込め、己の意識を越えて出ることをしなかったそれが、どくどくと湧き出る血液に引き出されるように、そこに露わになる。
 剥き出しの敵意。セトはぞくりと身を震わせた。
「……ククク……。そう、それが貴様の本性なのだ」
 そうしてまたニタリと笑った。
「秩序を知らぬ、野獣と同じだ――!」
 そう叫ぶとセトは血とおなじ色をした柄を乱雑に握る。
 ほぼ同時に、シエンは残る左腕を地に突きたてた。その攻撃的な意思を具現するように、彼の周囲に岩石が角のように鋭く立ち上がる。
 セトは巨大な剣身でそれを薙ぎ払う。勢いで剣身を返し、刃はそのまま振り下ろされる。それを受けとめるため、シエンは目前にまたひとつ厚い岩壁をつくりあげた。
 セトはにやりと笑う。岩壁を避け退いたシエンを追うこともできた、しかし彼はわざとそれを粉々に砕いたのだ――まるで見せしめのように。
 そこから素早く身を引いたシエンはふたたび力を示す。同じ、岩石を立ち上がらせ敵を阻む力である。
 セトはあざ笑うかのようにまた、それらを薙ぎ払い、じりじりと詰めよった。シエンは肩で大きく呼吸しながら数歩退く。
「相手にならんな」
 セトは見くだすように言った。
 余裕がないのだろうか、シエンはその意思を示せば現れるはずの剣を手にしようとしない。べたりと血塗られた左手は、地につきその身を支えるか、傷口を覆うばかりである。ただ無傷の片目だけが、その奥からやはりぎらぎらと灯っている。
 そうしてみたび示されたシエンの力は、これまでの力を束ねるようにして鋭い岩石をただ一つ生み出し、セトの身を貫かんと立ち上がった。
 巨大なそれにセトは眉をわずかに寄せるが、しかしひるまない。剣があれば、地より生じるどんなものも紙切れのように問題にならないのだ。
 侮られたものだ。セトは鼻であしらい、漆黒の刃でそれを薙ぐ。岩はこともなげに砕かれ、破片がそこかしこにとび散った。
 直後、セトは目を疑った。その奥にさらに退いたであろうシエンの姿が見えない。
 ハッとその気配を捉えたときには既に、シエンのその血走った目が、すぐ鼻先にあらわれた。
「……!!」
 あまりにも近かった。
 戦慄。見開かれたオリーブ色の瞳がひらめく翠緑をとらえる。
 声を上げる間もなく、細身の刃はセトの手首に喰らいついていた。
「ぐああぁぁぁぁ……っ!」
 ひびく絶叫。散る鮮血。黒い刃は音をひびかせ地に落ちる。
 シエンは駆けた。片手に握る剣身をすばやく翻しそのまま――翠緑の刃に赤い筋を従え、まっすぐに駆けた。
 地を蹴り走りながら、彼はその意思で石礫を集わせ足場とし、一気にそれを駆けあがる。
 そうして、暗天にひろがる不気味な筋をあおぐと、シエンは剣身を引きつけ、大樹の根、その中心となる一点へと、刃を突きだした。
「やめろおぉぉぉォォおおオオぉぉ……ッ――!!」
 はっと見開く翠緑にうつるセトの姿。
 地にあったはずの彼の身が唐突にそこに現れ、剣の威を阻まんと大の字に四肢を広げる。
 しかし――シエンの剣先はセトの身を貫きそのまま、大樹の根にくいこんでいた。
 確かな手ごたえ。同時に振動がひとつシエンの身を伝い、つづいてその場全体が低くとどろき渡る。
 悪霊の嘆きがおり重なるように、それは不気味な音を響かせる。そうしてなにか強大な力が迫りくるような振動をひきおこした。
 翠緑の刃を鮮血が伝う。剣は抜けなかった。足場が持たず、シエンは剣を手放し地に降り立った。
 天井には剣に留められたセトの身体が残されるばかり。
「あ、に……うえ」
 微かにもらされた声は、地の鳴動に呑みこまれていった。
 セトの背後にあった樹の根が、音をたて砕け散る。そうしてそこに、突如ぱっくりと闇がひらかれた。
 ぐいと引き付ける力を感じ、シエンは天井を仰ぐ。そこに彼の剣もろともセトの身体が、背後の闇に引きよせられるのを見た。
 彼は足場を作りそこへ向かおうとした、しかし組みあげた石礫はたちまち崩され、天井の闇へと引き込まれていく。
「く……っ」
 シエン自身、身体を地より引きはがそうとするその力に抵抗するので必死だった。セトの身が闇の奥に呑まれて消え去るのを、彼は成すすべなく見守るよりほかなかった。
 セトを呑みこむと、闇は、低い咆哮をひとつ響かせた。
 しかしそれで終わりではなかった。闇はじわじわと膨張し始め、渦を巻き、その引力を強めたのだ。
「な、に……?」
 困惑したようすでシエンは思わず声を上げた。
 ひらいた闇からあふれ出るようにして、強大な力が広がってゆくのを感じる。
 それは獰猛な獣のように、その場の全てに食らいつき、腹のうちに呑みくだそうとしていた。


   *


(この膜が破られてしまえば、すべてが終わる)
 細くながく息を吐き、ドサムは太陽神の力にひとり耐える。
 彼以外これに対応しうるものはない。 
 膜はすでにいくつも孔が穿たれ、太陽神の力は幾度となくもれ出ていた。しかしそれでも、かなりの部分がそこに――かろうじて――封じてあるのだ。
 彼はもっとも厚い内側の層を維持しながら、より層を厚く強固なものにしようと考えていた。
 その力は動植物の姿をかたどりあらわれる。それは透明な水かガラスのようで、ぼうやりと蒼い光をおびている。けれどその芯にはより深い藍の闇をたたえ、その光と闇が強弱をくりかえすさまが、まるで生命の鼓動のようである。
 そうした幻想的なようすは、静かに夜天に浮かべるにはふさわしいが、激しい光の前ではその姿すらたしかにできなかった。天を泳ぐ魚の群れ、駆ける牛、這う鰐、沼地をしげるイ草や飛び交う鳥たち……そのもつ柔らかな光も闇も、太陽神の放つ黄金があっというまに呑みこんでゆく。