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短編集10(過去作品)

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 その時の季節がいつだったか、今でははっきりと覚えていない。暑かったような気もするし、寒かったのかも知れない。それだけかなり昔のことだったのかとも思うのだが、最初から季節感はおぼろげだったような気がする。
 さすがに勢いよく手を引っ張られて連れてこられたので喉が渇いていたのは事実で、出してくれたジュースを一気に飲み干した。
「おいしい」
「そう、それはよかったわ」
 私が一気に飲むのをじっと見ていた彼女は、淡々とした口調ではあったが、微笑みながらそう言った。右手はストローに添えられ、左手でコップを持って飲んでいる姿は、まさに上品なお姉さんの雰囲気を醸し出している。下を向いて飲む時邪魔になるのか、長く伸びた髪を掻きあげる仕草が、妙に大人の色香を滲み出させていた。
 飲み終わり、コップを置いた彼女は少し目が虚ろになって見えた。頬も紅潮し、まさかアルコールが入っていたのでは、と思ってしまうほどである。
 アルコールが入っていなかったことは、それからすぐの彼女の行動で証明されたが、それは私にとってとんでもない行動だったのだ。
 心の中で密かに期待していたのだろうか?
 それともあまりの行動に酔いしれてしまい、身を任せることを選んでいたのかも知れない。確かに今から考えると私の行動は自然だった。その時も「自然な行動」として納得していたはずなのだが、錯覚かも知れないと思っていたことも事実で、とにかくどうしていいか分からないでいた。
 彼女が擦り寄ってきたのは分かっていた。密かな期待があったのも事実である。しかしわざと平静を装っていた。自分の気持ちを悟られたくないという羞恥の思いがあるのだ。
 私のそんな気持ちを知ってか知らずか、彼女はお構いなしに私に擦り寄ってくる。完全に虚ろになった瞳は私の目を捉えていて、目のやりどころに困っていた。しかし目を逸らせばそこには彼女の艶めかしい姿があるだけで、オドオドしてしまうだけだ。そんな私を見て、「何でもお見通しよ」と言わんばかりの表情に、少し苛立ちのようなものを感じていた。
 一瞬彼女の重みを感じた気がした。完全に身体を私に預けるように、ビッタリと身体を摺り寄せてきたのだ。だが、重みを感じたのも一瞬だけで、その後は服の上からでも分かる彼女の暖かさと肌の柔らかさを感じるだけだった。
 近づいてくる唇を敢えて避けようとはしなかった。大人になった気持ちになって初めての唇を受け止めた。その時に感じた柑橘系の香り、初めてではなかった気がしたのは気のせいだろうか?
「キスは、レモンの味だ」
 思っていた通りだったことに、思わず心の中で苦笑していた。
 こういう時は目を瞑らなければいけないのだろう。しかし、まるで唇に集中するかのように目を瞑ってでも視線を向けている彼女の目をずっと見ていた。
 唇が紅潮しているのが分かる。頬が熱くなってくるのが分かったが、触るときっと冷たいような気がする。背中からジワッと滲み出てくる汗が流れ出るのを感じることができるようだ。
――彼女はこういうことに慣れているのだろうか?
 決して慣れていないのではないだろうかと思うのは、私の願望に過ぎない。しかし、そう考えれば考えるほど、お互いにぎこちない態度であることを感じる。
 気がつけば彼女の背中に私の腕が回りこんでいる。確かにキスの体勢は相手を抱きしめるのが自然にできているのだということを、なぜか頭の中で考えている。それほどその時冷静になっていたのだろうか?
 最初は流れるように私に抱かれているだけのお姉さんだったが、そのうちに私の背中が彼女の腕を感じ始めた。
 それとともに強く吸い付いてくる唇が微妙に震えているのを感じる。
 身体も微妙に動いていて、まるでモゾモゾしているようだった。焦らされた子供がイジイジしている仕草に似ている感じがして、さっきまで見えていた「大人のオンナ」とのギャップを感じる。
 彼女の方から、唇を離してきた。あまりの長さに少し新鮮さを失いかけていただけに、私としては残念な気はしない。むしろ離したいと思いながらも金縛りにあったかのように動けない自分に苛立ちを感じていた。
――彼女の震えも私のような苛立ちから来るのだろうか?
 いや、どうやらそうではないようだ。私の身体から離れた彼女をまだ掴んでいた私は、彼女の身体から震えが抜けないのを感じていた。腕を離してしまうと、どこかへ行ってしまいそうな錯覚に陥ったのかも知れない。もし彼女の中に苛立ちのようなものがあるのなら、ほんの少しであっても顔の表情が変わっていただろう。私が見る限りでは、何を考えているか分からないような表情は、最後まで変わることはなかったのだ。
――では、この震えはどこからくるのだろう?
 無意識のうちの震えであれば、彼女が夢心地にある気がする。何かトラウマのようなものが彼女にあるのかも知れないと思ったのはその時だった。
――私は実験台なのかも知れない――
 トラウマが彼女の中に存在し、それを振りほどくために誰かとキスをすることを考えたとしよう。そんな中で、相手が同い年くらいの男であれば、惚れてしまわないとも限らない。彼女がそう考えたとしても不思議のないことだ。いや、彼女ならそう考えるに違いないという無責任な確信があった。
――相手が子供なら、そんなことはないだろう――
 彼女はそう思ったかも知れない。しかしそのターゲットにされた私はどうなのだろう?
 女性のそんな気持ちを子供の頃の私が分かるわけがない。わけの分からないうちにファーストキスをさせられて、戸惑いと柑橘系の香りだけが頭に残った。
 本当なら唇の柔らかさなどを一番身体が覚えていそうなのだが、記憶の奥に封印してしまったようだ。
 それから私はどうやって帰ったかすら覚えていない。
 家に帰ってからずっと鏡の中の自分を見ていた気がする。その背後に居もしないおねえさんを感じながら……。
 何となく道だけは覚えていた。元々、方向感覚が悪い方ではない何となくでも道を覚えているものだった。それから数日して、私は再度彼女に会いたくなった。寸前までそんな気持ちはなかったのに、いきなり会いたくなったのだ。頭の中に浮かんでは消え、それが会いたくて仕方のないことだと気付くまで、少し時間が掛かった。
 意外としっかり覚えているもので、線路沿いに歩いていくとそこにあるのは記憶通りのアパートだった。ここまで来れば彼女とのことが夢ではなかったことを確信できる。おぼろげな記憶の中で、
――本当に現実なのだろうか?
 という思いが常に頭の中にあったことは否めない。
 コソコソと塀の間から覗いていたのは、自分の中で後ろめたさのようなものがあったからであろうか?
 コソコソしていて正解だと思ったのはそれからすぐのことだった。
 タイミングはドンピシャだった。塀の影に隠れてゆっくり覗いたその時である。一組の男女が寄り添うように出てきたのだ。女性の顔は忘れもしない、あの時の「お姉さん」に間違いなかった。気がつけば唇を見つめてしまっている自分に嫌悪を感じながら、それでも目を離すことができなかった。心なしか濡れて見える。どう見ても化粧をしている感じではない。
作品名:短編集10(過去作品) 作家名:森本晃次