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短編集7(過去作品)

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菊の香りの魔力



              菊の香りの魔力

 とても多感でいろいろな思いが一番の時であるこの時代、電車に乗ると思い出すことがある。
 あれは大学に入学した頃だったであろうか。辛く苦しい受験時代を過ごしてきた私だったが、本人からすればそれほど苦痛ではなかった。
 諦めの境地? 今考えればそれもなきにしもあらずで、当たり前の毎日であった。
 禁欲の日々も今は懐かしく、あっという間の毎日だったはずが、考えてみれば長い日々だったような気がする。元々勉強が好きだったのかも知れない。予備校の近くにある種々の誘惑に、負けていた友達もいたが、私は気持ちを抑えようとせずとも、冷めた目で彼らを見つめることができたのだ。
「お前は面白くない」
 露骨にそう私のことを言うやつもいたが、私からすればそんなやつによく思われても仕方がないことだった。むしろ放っておいてくれる方がありがたい。
 外野や誘惑に負けることなく、自己管理もしっかりできていたと思う私は、計画通り志望校に入学できた。ここまでは計算どおりであった。
 歯車が狂ったのはいつからだったろう?
 元々女性に興味などないタイプの男だと思っていたのは、クールな自分の性格を考えてのことだった。受験という禁欲時代にはそれが幸いし、女性というものを意識せずに済んでいた。しかし、禁欲から放たれ、夢を達成した私に待っていたのは、
――これからどうしよう――
 という思いだった。
元々大学に入って何をしようという考えなどなかった。ただ目的貫徹だけにまい進した毎日、しかし今感じているのは“不安感”ではなく、どちらかというと“脱力感”に近いものだった。目標さえ見つかれば、すぐに解消することは自分でも分かっていた。
――自分を省みるか――
 そう考えたのは、大学の近くにある喫茶店に一人で行った時のことである。コーヒーというのを受験生時代は、ただの“眠気覚まし”の道具としてしか考えていなかったが、さすが専門店、前を通るだけで香ばしい香りが鼻をつき、モヤモヤしていた頭を心地よく刺激したのだ。
 赤いレンガ造りの壁は、行ったことのない西洋の赴きを感じさせ、今まで何度も前を通っているのに意識しなかった私を黙って見つめている気がした。
 堂々たる、風格のある外観と違い、中は温かそうな雰囲気だった。アルプスの羊が首からぶら下げているような鈍い鐘の音が響くと、開いた扉の間からさらに香ばしい香りが淀んでくる。
「いらっしゃいませ」
 クラシックなBGMの中、かわいい女の子の声が響いた。カウンターから上がっている湯気を通して聞こえるその声は店内いっぱいに響いて聞こえ、銭湯のような音響だった。
 キョロキョロとあたりを見渡しながら、ゆっくりと歩を進めた私を、カウンターの中のその娘はじっと見つめていた。年齢的には私と同じくらいか? ひょっとして同じ大学のアルバイトかも知れない。
「これ、メニューですね」
 私が座った席にすかさず、お冷とおしぼりが置かれ、そう言って私を迎えてくれた。
 受け取ったメニューを見るふりをして彼女を見ると、私をじっと見つめる目とぶつかってしまい、思わず目を背けてしまった。
 メニューを開いて見ていたが、その間も彼女の視線が気になっていたことは、言うまでもない。
「三光大学の方?」
 と彼女が話しかけてきた。
「ええ、今年入ったんですけどね」
「そうですか、私もそうなんですよ。二年生ですけどね」
「じゃあ、先輩ですね」
「はい、ここは大学の方の常連店みたいになってますから、どうぞ気楽にいらしてくださいね」
「それはもちろん」
「でも、初めての方で一人で来られる方は珍しいんですよ」
「そうなんですか? 匂いに誘われましてね。やっぱりサークル関係の方たちが多いんですか?」
「そうですね。あとアベックの方も多いですね。羨ましい限りですけど……」
 休むことのないその手には、絶えずグラスと布巾が握られていた。話しながらでも器用なものだと思わず感心してしまったが、バイト歴も長いのだろうと思った。
「ここでのバイトは長いんですか?」
「いえ、入ったのは最近ですよ。でも常連さんにはいつも話しかけてもらってますわ」
 そう言いながら満面の笑みを浮かべていた。きめ細かな白い肌が頬を中心に紅潮していて、ほのかな笑みにもエクボが浮かんで来そうに見える。
しかし彼女の視線は、ずっと私にあるわけではなかった。時々チラチラと横の方を向いている。その顔には少なからずの怯えがあり、私に何かを訴えている。助けを求めている顔に見えるのは、錯覚であろうか?
それでもすぐに気を取り直し、面白い話を考えようとしてくれるのだが、気になるのか、視線は一定しない。
彼女の視線を追ってみた。カウンターから奥のテーブルに向けられた視線の先を追いかけてみたのである。
おや?
 視線の先を見つめてもそこに誰かがいるような気がしない。しばらくの間、静寂の中、テーブルに向けられる彼女の視線、その彼女の顔を覗き込む私、といった異様な雰囲気が続いていた。
「陽子ちゃん」
 反対側にあるテーブルに座っていた数人の客が声を掛けなければ、完全にそのまま固まっていたかも知れないと思えるほどだった。頻繁に時間を気にすることが癖になっている私は、思ったより時間が経っていなかったことに驚いていた。
「あ、はい」
 どうやら彼女は陽子という名前らしい。彼女をそう呼んだ連中の表情は楽しそうで、呪縛から解き放たれたかのようなホッとした表情になった陽子は、すかさず彼らの方へと向かった。
 追加メニューらしい。
 カウンターの中に戻ってきた陽子は、忙しそうにしていた。実際に動いている本人はそれほど大変ではないかも知れないが、いつもであれば、見ている私に話しかける勇気を与える隙もなかったであろう。
 しかしその日は違っていた。先ほどの何かに怯えたような表情がどうしても頭から離れず、
「陽子さんって言うんですね」
 と、あらためて聞いてみた。
「ええ、太陽の“陽”に、子供の“子”で陽子です」
 太平洋の“洋”を使う人は友達にもいるんだが、太陽の“陽”を使う人とはあまり今まで面識もなく、私にとって珍しい名前だった。
 彼女の表情に変りはなく、手だけ忙しく動いていたが、私が話しかけることに違和感があるどころか、嫌味のない笑みを浮かべていた。
 しかし、視線をコーヒーカップに落としたふりをして彼女の表情を垣間見ると、チラチラと先ほどのように奥のテーブルへと視線を向けていた。それでも私に気付かれまいとする努力が窺え、健気な感じを受けた。
 カウンターの中のサイフォンから立ち込めている湯気に目が行ってしまった私は、どうやらそこから目が離せなくなってしまった。彼女の視線も気になるのだが、無意識な遠慮から目のやり場に困った私の視線のたどり着いた先が、サイフォンから立ち上る湯気だったのだ。
――何とも不規則な動き――
作品名:短編集7(過去作品) 作家名:森本晃次