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短編集1(過去作品)

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 まずは死体の身元をはっきりさせることが先決であり、捜査の方針はまずそこに絞られることになった。
 そして身元について特定されたのはそれから一週間後だった。一人の女が身元確認に訪れたのであるが、女性は自分がその男の妻であると語った。
「もっと早く気付かなかったんですか?」
 警察としてはもっともな意見である。別にどちらかが旅行や出張に出掛けていたわけではないのだ。質問した刑事も、もし自分がいなくなったら、それを妻がいつ気付いてくれるだろうかなどと余計なことを考えてしまい、あまりの通報の遅さに半分呆れ返っていた。
 最初、そのことについてなかなか話そうとはせず口が重かった女も、冷静になって考えると、このままでは自分が疑われてしまうのではと思ったのか話し始めた。
「私は主人と結婚して十年になりますが、子供もなく、どちらかというとお互い割り切った生活をしておりました」
「割り切ったと言いますと?」
「お互いの趣味や仕事には、あまり干渉しないということです。お互い働いておりますので、家賃や公共料金などは二人で出し合っておりますが、それ以外は自由に使えるお金だったんです」
「なるほど」
「主人は普通のサラリーマンで土、日曜が休みなのですが、私はデパート勤務なので平日
が休みになるので休みが合いません。いつしかお互いのプライバシーを守るという名目で干渉し合わない仲になってしまったんですね。そういうわけですから出張に行く時も何も言わずに出掛けるくらい日常茶飯事なので、何日間か家を留守にすることはあったんです。別に心配はしていないんですが、さすがに一週間にもなると心配で会社に電話してみたんです」
「てっきり出張かと思っていたら、無断欠勤だったわけですね」
「そうです」
 話を聞いていた刑事は、最近こういう夫婦が増えてきたのかと思うと、ますます寂しくなるのを感じた。
「それでは最近のご主人の立ち寄りそうな先とか、ご主人の交友関係などもあまりご存知なんですか?」
 女は黙り込んだ。何かを考えているようである。それはまるで何かを知っていて、どうしようか迷っているかのようである。
「どうなんですか?」
 押してみる価値ありと考えるや、刑事は強めに聞いた。
「実は、これはあくまでも女のカンというだけで何の根拠もないんですけれど、主人にオンナがいたのではないかと思うんです」
(やはり)
 口に出そうか出すまいか迷っていたくらいなので、本当に根拠のないことかも知れない。
少し形式的に聞いてみたが、はっきりしたことは本当に知らないようだった。
 刑事の頭の中で、どこまで信じていいか分からないという思いがあったが、無視できるものでもなく、その線からも捜査にあたることになった。
 ある日、人知れず胸を抉られ一瞬にして人生が終わってしまったこの男、過去に一体何があったのだろう……。


「おい、ハカセが来たぜ」
 そう一人が呟くと、出来ていた輪がクモの子を散らすように飛び散った。その跡を今までそこに輪が出来ていたことなど知らない「ハカセ」と呼ばれる男が通った。
「ハカセ」と呼ぶことに敬意を表している者など一人もいない。誰もが皮肉の元に彼を「ハカセ」と呼ぶのだ。理屈っぽいというのが由来になっているが、ちょっとした一言がこの男にかかれば大演説に変わってしまうのである。
先日話していたこともそうである。この間の話は確か前世について話していた。今のその人を見れば前世が何だったか分かるというもので、人間だったらまだしも、犬や猫それならまだいい、中にはナメクジと言われた者もいた。
 「ハカセ」がウンチクを傾ける相手、それは同じ療養所で生活する仲間である。数ヶ月前交通事故に遭った通称「ハカセ」こと水谷義人は記憶喪失に陥り、ケガの治療が完治するとともにここに運ばれてきた。
 年齢は三十三歳の独身で大学進学とともに出てきた街でそのまま就職し、今は一人暮らしである。
 面会にしても彼の同僚が時々訪れる程度だったが、それも最初の頃だけで今はほとんど誰も来なくなった。その同僚いわく、事故に遭う前の彼はそれほど理屈っぽいこともなく、
第一極端に口数が少ない方だったそうである。
 鏡を見つめ顔を作っている「ハカセ」を何人かが目撃したということで、一度療養所内で噂になったことがある。その表情が横から見た程度ではっきりと分からないが、まるで別人のように見え、気持ち悪いといった話である。また鏡に向かって何か話し掛けているのを見たという者もいた。
 どちらかというと療養所内での「ハカセ」は異色だった。元々ケガや病気でリハビリや長期療養を余儀なくされた者たちが集まるところで精神科関係ばかりではない。「ハカセ」は確かに異色ではあったが、記憶を失った以外に精神的な病の所見はないのだ。だから余計に気持ち悪がられる。
 他の者から見れば「ハカセ」はここの居心地を気に入っているように見える。時々意味もなく口元が緩み、ゆったりとした顔になることからそのように見えるのだろうが、実際は記憶を失ったことのない他人に本人の気持ちが分かろうはずもなかった。
 記憶を失うとはどういうことだろう。自分が誰であるか、自分がどういう環境や人間関係の中にいたのかなどは思い出せないくせに、ウンチクを傾けるだけの知識や本能、また理性といったものは残っているのだ。専門家ならいざ知らず、知識のないものにとってこれほど不思議なことはないように思える。
 ウンチクを傾け始めてから、話が佳境に差し掛かり熱弁がさらにヒートアップして来ると、その中の理性がまず吹っ飛んでしまい、相手にとって失礼なことでも平気で口にしてしまう。これは「ハカセ」に限らず一般的にもそういう人が多いのだろうが、それも他の人から嫌われる原因であった。「あなたの前世はナメクジだ」などと言われて気持ちの良い者などいようはずもないのである。
 「ハカセ」はあまり他人のことに興味を示すタイプではない。療養所内でのいろいろな噂や他の人の中傷にはまったく無関心で、まるで魂が抜けたようにボーッとしていることがしばしばである。しかしひとたびウンチクのネタが見つかれば相手構わず話の腰を折り、
捲し立てるように話し始めるのである。
 療養所内で、図らずも「ハカセ」という呼び名がついたのも、そういった偏屈で常軌を逸した行動にあるのだろう。「ハカセ」と呼ぶ中に「ジキル博士」を思い浮かべる人もいるくらいだ。
 そう記憶を失ってからの水谷しか知らないのだから、皆一様にこの男の一面しか知らないのだ。ひょっとしてその裏側には「ハイド氏」が潜んでいるかも知れない。
 時々魂が抜けたようにボーッとする時というのは、いつもパターンが決まっている。
 夕暮れ時のことである。療養所の外には整備された公園のようになった庭が広がっているが、ちょうどそこに西側を向いて座る白いベンチがある。そこで西日を浴びながら眩しいはずなのに目を逸らそうともせず、普通に正面を向いて見えるその一点だけを、ただじっと見つめているのである。
 西日に照らされた水谷のその表情はまるで恍惚にも見え、誰もが気持ち悪がって近づこうともせず、完全にそのベンチは水谷一人のものとなってしまっていた。
作品名:短編集1(過去作品) 作家名:森本晃次