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平安の月

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 その日、佐兵衛と笹は、市が並び多くの人が行き交う道を歩いていた。そして、二人は道の先にある、見世物の舞台がしつらえた一画に腰を下ろした。
 そこでは、いろいろな出し物が演じられていた。踊りを踊る者、曲芸を披露する者、奇妙な格好で笑わせる者など。そして、そこで笹の目を釘付けにしたのは、横笛を吹くひとりの若者だった。その笛は心に染みわたるような音色を奏で、一瞬にして笹の心を虜にした。
 帰り道、笹が聞いた。
「あの見世物は、いつもあそこでやっているのですか?」
「そんなに気にいったのかい、それは良かった。いろいろな土地を回っていて、結構評判がいいらしい。今回は半月ほど留まるそうじゃ」
 笹は、明日から旅に出たいというつもりだったが、なぜか口にできなくなってしまった。あと半月、佐兵衛が何も望まないでくれることを願うことにした。
 
 翌日、いつものように笹は薬草取りに出かけたが、早く切り上げ、昨日の見世物へ寄った。あの若者の笛をどうしても聴きたかったからだ。そして願い通り、その澄んだ音色に酔いしれた。こうして連日、笹は薬草取りの帰りに見世物へと足を運んだ。
 そんなある日、いつもより深い山に入り込んでしまい、その日は見世物通いを諦めて、薬草探しに励んだ。
 すっかり遅くなり帰りを急いでいると、美しい笛の音が流れてきた。聴き逃してしまった思いが、空耳になったかと思いながらも、その音の方に歩いていくと、山の突き出た岩場に、横笛を吹く若者のシルエットが浮かび上がっているのが見えた。
 夕陽を浴びたその美しさに見惚れ、奏でる音色に心は奪われた。笹に気がついた若者は、微笑んでこちらにやってきた。
「いつも聴きに来てくれる方ですよね」
 自分のことに気がついてくれたことに、驚きと喜びを感じながら、笹は答えた。
「ええ、素敵な音色ですね。いつもこちらで吹かれているのですか?」
「興行の後にここに来て、気持ちを素に戻すのです。本当はこのような自然の中で奏でていたいのですが、それでは食べていけませんから」
「明日もここに来れば笛の音を聴けますか?」
「はい、この山々とあなたのために奏でます」
 それから毎日、笹は薬草取りの帰りにその場所を訪れた。もう見世物に行く必要はなくなった。佐兵衛の家ではよくしてもらい、楓と光も仲が良く、そして素敵な若者と澄んだ笛の音、笹にとって夢のような毎日だった。
 
 ところがある日、笛を吹き終わると若者が言った。ここへ来るのは明日が最後だと。そして次は、東の山を越えた所で見世物に出るのだと。笹が怖れていた時がやってきたのだ。
 毎日、ただ笹は若者の笛を聴いているだけ、名前すら聞いていない。この時間が続いてくれればそれだけでよかった。でも若者は去って行く。止めることなどできるはずもない。自分は子連れの旅の薬草売り、笛吹きの若者に恋をしてもどうなるものでもなかった。
 失意のままに佐兵衛の家に戻ると、佐兵衛に話があると外へ連れ出された。そして楓とともに、正式に家に迎えたいと告げられた。同じ日に、恋しい人に別れを告げられ、そうでない人に求婚された。
 楓のためにも、そして自分のためにも、佐兵衛の気持ちを受け入れるのがいいことはわかっている。佐兵衛はいい人だ。その娘の光も素直な子になって今では笹を母のように慕い、楓とは本当の姉妹のように仲がいい。こんな恵まれた縁はそうそうあるものではない。でも、でも……それは笹にとって仮初の幸福でしかない。あの若者を想いながら、他の男と添えるわけなどなかった。
 
 答えを濁したまま、翌日、笹は若者に会いに行った。そして最後の笛の音に自然と涙が流れた。その様子に驚いた若者が心配して聞いた。
「どうかしましたか?」
「いいえ、何でもありません」
 か細い声で笹は答えた。
「昨日もお話ししましたが、明日は発ちます。毎日、笛を聴いてくれてありがとうございました。自分は笛を奏でている時が、無心になれてこの上ない幸福を感じるのです。そんな時間を共にできる人ができてとてもうれしかったです。またいつかご縁があったらお会いしましょう」
 そう言って若者は去って行った。若者は、単に楽しい時間を共に過ごせたと思っていた……笹の涙の本当の意味など気づきもせずに……
 笹はとても悲しかったが、黙って若者を見送るしかなかった。

作品名:平安の月 作家名:鏡湖