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銀の錬時術師と黒い狼_魔の島

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第十九話 宴のあとで


 月の女神。
 彼女の美貌をレギウスは強く意識する。
 闇と月を支配する女神は微笑んでいる。優しく、たおやかな笑顔。風もないのに彼女の長い銀髪が揺れていた。
 ここはどこだ、とレギウスはいぶかる。色がない。空も地面も、自分の肉体すらない。
 それでも、レギウスは「そこ」に存在していた。月の女神と対峙している。彼女が自分の頬をなでるのを漠然と感じている。
「よくやってくれましたね、わたしのかわいい坊や」
 女神がレギウスの耳元でささやく。甘く香(かぐわ)しい吐息が彼の首筋をくすぐる。
「あなたの働きにわたしは満足しています。あなたはまだ死んではいけません。これからも生きるのです、レギウス。生きて、わたしの役に立ちなさい……」
 女神の身勝手な物言いに対して、自分がなんと答えたのかはよく憶えていなかった。
 女神の存在が薄らいでいく。
 なにもない空虚な世界にひとり取り残された。なんだか肌寒い。
 暖を求めて、レギウスは腕を伸ばし──

 頬に温かいものを感じた。
 身体がひどくだるい。疲労が筋肉だけではなく、手足の先まで重くのしかかってくる。
 声がする。女の声。
 音楽的で、耳に心地よい、聞き慣れた女の声。
 せっぱつまった声音で必死にレギウスの名前を呼んでいる。
 レギウスの周囲に現実が立ち戻ってきた。固まってしまったようなまぶたを無理やりこじ開ける。
 すぐ真上に、逆さまになった女の顔があった。
 リン。
 レギウスの顔をのぞきこんで、何度も呼びかけている。
 ごく最近、これとよく似た経験をしたのを思い起こした。あのときは〈第二図書館〉の地下書庫だったが、いま横たわっているのは──灰色の陽射しがあたりを照らしているところからすると──打ち捨てられた寺院の廃墟だ。
 ホッとしたことに、ここは冥界じゃない。
 つまり、自分はまだ生きている、ということだ。
(月の女神がおれを〈死者の門〉から送り返してくれたのか……)
 今回の仕事のご褒美なのかもしれない。そうだとしても、女神に感謝する気持ちにはなれなかった。
 レギウスの両方の頬をリンの手がくるんでいた。温かく感じたものは、彼女の手の温もりだった。
 口のなかは血の味がした。舌でまさぐると、頬の内側を切っていた。唇も割れている。
 それでも──
「……生きてるな、俺たち」
 リンの手に自分の手を重ねて、言わずもがなのことを口にすると、たちまち彼女の瞳がうるんだ。声をたてずにポロポロと涙をこぼす。
 レギウスはため息をつく。まるで凍りついたかのような腕を動かすと、右手の指先になにか硬いものが触れた。目をやると、抜き身になった〈神の骨〉が落ちていた。
 肘をついて上半身を起こす。〈神の骨〉を拾い、すぐ近くに転がっていた黒い鞘に収める。
 下腹部がひどく痛む。自分の身体を見下ろすと、黒い腰着が血に濡れて肌にべったりと張りついていた。いつの間にか負傷したらしい。腰着をめくると、へその上にぱっくりと赤黒い傷口が開いていた。
「……痛ッ!」
「じっとしていてください。いま治療します」
 リンが第二種術式文字を手早く編んで、レギウスの腹の傷口をふさいでいく。それが済むと、リンはまたもや肩をわななかせて泣きだした。
 レギウスは後ろ頭をかく。なにが苦手って、自分が原因で泣いているリンほど苦手なものはない。
「リン、もういい。終わったんだ。おれがケガをするたびに泣くなよ」
「ごめんなさい……」
 あとは涙声になって、なにを言っているのかよく聞き取れない。立ちあがり、リンの肩を軽くたたいて彼女も立たせる。
 リンはまだ泣いている。どうにも涙が止まらないらしい。レギウスはどうしたものかと途方に暮れる。
 新大陸で最強の錬時術師とうたわれるわりにリンは存外、泣き虫だ。いや、好意的に解釈するならば、それだけレギウスのことを気遣ってくれている、ということか。
 思いあぐねたあげく、レギウスは話題を変えて雰囲気を刷新することにした。
「リン、〈黄昏(たそがれ)の回廊〉の封印はどうなった?」
「……封印は復元されました」
 リンは手の甲で涙をぬぐい、おずおずと微笑む。
「わたしたち、勝ったんです」
 レギウスは鷹揚(おうよう)にうなずいた。自分が生きている、というのがなによりの証拠だった。今回はからくも〈傀儡師(くぐつし)の座〉と、彼らと裏で手を結んだ冥界の王の陰謀をしりぞけることができたのだ。
 四囲を見渡す。荒廃した寺院の廃墟がひっそりとたたずんでいた。かろうじて一部が残っていた祭壇は完膚(かんぷ)なきまでに破壊されていた。屋根は柱の周りを残してすべて崩れ落ち、壁際に並んでいた木像の群れもことごとく砕け散っている。床はあちこちが陥没して穴があき、術式陣の線形はもはや原形をとどめていない。
 怒れる神の気配はどこにもなかった。いくら〈神の骨〉で傷つけたとはいえ、冥界の王があれしきで深傷(ふかで)を負うとは考えられない。単に、ふたりに興味をなくしただけだろう。それにどうあがいたところで、いずれは──人間にくらべればはるかに長命のリンでさえも──彼の王国の住人となる定めの身だ。
 冥界の王と再会するまでにどれほどの時間が残されているのか、レギウスには知るすべもないが、それが明日だろうと五十年後だろうと、神にとっては気にもならない瑣末(さまつ)な問題なのであろう。いましばらくは猶予を与えられた、というところか……。
 ふたりから少し離れた場所にフィリアの手の骨をしまっていた木箱が転がっていた。周囲一帯に激しい衝撃を浴びたのにもかかわらず、木箱は奇跡的にどこも損傷がなかった。
 リンは木箱のそばにひざまずき、それをそっと拾いあげた。胸に抱える。悲しげに首を横に振った。
「……結局、誰も救えませんでした。ターロンも、ラシーカも……」
 レギウスはリンのすぐ横に立ち、木箱をじっと見つめる。なにも言えなかった。こみあげてくる感情を表現する言葉が見つからない。
 自分の戦いを後悔はしていない。たとえこの手でラシーカを殺していたとしても、それを悔いたりはしなかっただろう。
 そうであっても、レギウスの心の底によどんだやるせない心持ちは消えたりしなかった。
 リンは木箱を内懐(うちふところ)に注意深くしまいこんだ。胸に手を押し当てて、独り言のようにつぶやく。
「これは持ち帰ってキシロ三爵にお渡しします。彼の形見ですから……」
 リンがハッと息を呑んで左を向く。気配を感じて、レギウスは彼女の視線の先を追った。
 祭壇があった場所に灰色の影がたゆたっていた。
 レギウスは眉を逆立てる。
 女のかたちをした灰色の影は──フィリアの姿を借りたラシーカだった。
 ふたりの注意を惹くことができて満足したのか、ラシーカの残像はひっそりと微笑んだ。秘密が暴露されて恥ずかしがるような、どこか幼い子供めいた印象を与える笑みだった。彼女の右手の指が赤味がかった金髪の房をもてあそぶ。唇が動いた。声はない。なんと言ったのか。「ありがとう」なのか、「さようなら」なのか、それとも別のセリフなのか……。
 言葉にならない言葉を口にすると、ラシーカの姿は霧のように薄れ、濁った陽光に溶けてフッと消えた。