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銀の錬時術師と黒い狼_魔の島

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第十三話 港町と船乗り


 虚空に浮かんだ窓を通り抜けると、そこは廃屋のなかだった。
 がらんとした狭い部屋。鼻がひりつくような腐敗物の悪臭が空気に濃い。以前の住人が残したものらしい汚物の残骸が、部屋のすみに黒くひからびていた。
 部屋は暗かった。かたちのひしゃげたなにもない窓から清澄な月の光が射しこんできて、腐りかけた床板をまだらに照らしている。
 〈破鏡の道〉の出入口となっている鏡はそれほど汚れが目立たなかった。その昔、ここは宿屋かなにかだったのだろう。あたかも忘れ去られた記念碑みたいに突っ立つ四角い姿見が、招かれざる闖入者(ちんにゅうしゃ)であるリンとレギウスをひっそりと映しだしている。
 ほこりだらけの寝台が壁に寄せて置いてあった。レギウスは腰を落として寝台に背中を預ける。濃い疲労が毒素のように全身の筋肉を弛緩させていた。息をするたびに喉がヒリヒリと痛む。背筋を丸めて咳きこんだ。
 リンが心配げな顔をしてレギウスの背中をさする。咳の発作が収まると、レギウスは乾いた笑い声をたてた。
「……どうやら生きてるな、おれたちは」
「彼女が彼を説得してくれたんだと思います」
 リンは漆黒の鞘に収まった〈神の骨〉に目をやって、
「さもなければ、わたしたちは確実に殺されていました」
「いや、おれは殺されてたかもしれんが、おまえは違う。ヤツの目的はおまえだった。ヤツの股間のモノを見ただろ?」
 その場面を思いだしたのか、リンが眉を曲げる。
「おれの想像だが、ヤツはおまえに子供をはらませたかったんじゃねえのか?」
「なんのために?」
「死んだ自分の身代りさ、たぶんな。もしかしたら、それで生まれ変わることができると信じてたのかもしれねえな」
 その可能性を否定することができず、リンは自分の肩を抱いて身震いする。
「……わたしに母親になる資格はありません」
「おれだって父親になる資格はねえさ。だけど、おれの子供を産んでくれっていったら、おまえは断るのか?」
「え?」
 リンが目を丸くする。レギウスのニヤニヤ笑いにぶつかってからかわれたと気づき、ぷっくりと頬を膨らませる。そんな子供じみた反応がとてもかわいい、とレギウスは思う。
 レギウスの背中をドンと強くたたくと、リンは窓辺に寄って夜空を見上げた。
「……月の欠け具合からすると、わたしたちが〈破鏡の道〉のなかで過ごした時間は一日のようですね」
「予定どおりだな」
 レギウスは吐息をつく。
 計算していたとおりだが、どうにも違和感をぬぐえなかった。そんなに長い時間を〈破鏡の道〉のなかで過ごした感覚はないのだが、もともと時間のない空間なのだから、人間の当て推量なんかまるであてにならない。それでも、通常は五日もかかる旅程をたったの一日に短縮できたのだから、所期の目的は達成したことになる。
「ここがどこだかわかるか? おれたちがいるのは〈乱鴉(らんあ)の塔〉の町なんだろうな?」
「案内人がまちがえるとは思えません。潮のにおいがしますから海のそばであることは確かです」
「そうか。じゃあ、すぐに動いたほうがいいな。あれから一日が経ったとすると、問題の日食は明後日だ。今夜のうちにでも船に乗らないと間に合わないかもしれない」
「しばらく休みましょう。レギウスは疲れてるはずです」
「おれのことなら……」
 リンはかぶりを振ってレギウスの言葉を封じる。
「聞きわけがないようでしたら、またわたしの血を飲ませますよ?」
「すみません。それだけは勘弁してください」
 レギウス、その場で土下座。
 背中の荷物を枕の代わりにして、横になる。べとついた羽目板の床は寝心地がよくなかったが、ガマンできないほどではなかった。レギウスの横にリンが寝そべった。
 リンがぴったりと身体をくっつけてくる。手をにぎった。彼女の温もりが筋肉にしみついた疲労を溶かしていく。それがとても心地よかった。
 目をつぶると同時にレギウスの意識は眠りに落ちていった。

 二、三時間は眠っただろう。
 調子の外れた歌声がレギウスの目を覚まさせた。男が甲高い声で月の女神を讃える下手くそな歌を歌っている。酔っ払っているらしい。不意に歌声が途切れると、今度は激しくえずく汚らしい音が聞こえてきた。
 身体を起こす。すっかり、というわけではないが、体調はずいぶんとマシになっていた。
 リンはもうとっくに起きていた。壊れかけた窓から外の様子をうかがっている。レギウスは彼女のそばに寄り、いっしょになって外をのぞいた。
 この廃屋が面している数歩ほどの幅しかない路地の反対側には、粗末な板を張り合わせた塀が立っていた。その塀に右手をついて寄りかかった男が、今晩の食事を路面にぶちまけている最中だった。男はしばらくのあいだその場で荒い息をついていたが、呼吸が落ち着くと素知らぬ顔をして悠然と歩き去った。
 レギウスはリンと目配せをして、廃屋の崩れかけた扉口から外へ出た。
 空を仰ぐ。あばた面の下弦の月が天頂から彼を見下ろしている。潮の香りはわからなかったが、魚を干す生臭いにおいが鼻についた。どこからか浮かれ騒ぐ男たちの声が聞こえてくる。つぎはぎだらけの塀の上を歩いていた黒ネコがピタリと動きを止め、無愛想な鳴き声を投げつけてきた。
「船乗りを探そう」
 と、レギウス。どこを探せばいいのかはわかっている。
「こんな夜中に船を出してくれるでしょうか?」
「出させるのさ。おまえが持ってる通商金貨はなんのためにあると思ってるんだ?」
 狭い路地を抜けると、砕いた貝殻で舗装した広い通りに出た。通りの両側に立ち並ぶ商店の大半は戸を閉めていたが、居酒屋と娼館は看板を出して営業中だった。昼間にくらべれば人通りは少ないが、それでもひっきりなしに通行人が通る。
 街角に立つ派手な身なりの女が通りすぎていく男たちに片端から声をかけている。レギウスも声をかけられたが、かたわらに立つリンに気づき、意味ありげな笑みを振りまいて別の男へと矛先を変える。やたらと扇情的で露出度の高いリンのいまのかっこうから彼女を同業者と判断したのだろう。まあ、ムリもない。とんでもない勘違いをされたリンはムッとしている。レギウスは口のなかで忍び笑いを洩らした。
 船乗りは簡単に見つかった。いちばん近い居酒屋をのぞくと、そこは薄汚れた青灰色の船員服を身につけた船乗りたちで占拠されていた。
 周囲をはばからない豪快な笑い声、笑い声に負けないぐらいの怒鳴り声、大量消費される酒と料理。男たちの酸っぱい体臭を、質の悪いタバコの青い煙が包みこんでいく。テーブルとテーブルのあいだを泳いでいた給仕の女の子が、入口に立つリンとレギウスのふたりを目にとめて「いらっしゃいませ!」と元気いっぱいの声をかける。
 いかにも船乗り然とした無骨な数人の男が猪首(いくび)を回して振り向く。黒衣のレギウスを見て不快げなうなり声をあげ、黄緑色の官能的な巫女装束に身をくるんだリンを見て感嘆の口笛を吹く。男たちのあけすけな視線が、リンの露出した胸元とスリットからのぞいた太腿に集中する。
 リンを歓迎して船乗りたちが「乾杯!」と唱和する。苔酒を満たした陶製の酒杯があちこちで涼しげな音を鳴らした。
「よお、そこの姉ちゃん!」