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紅装のドリームスイーパー

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Real Level.15 ──病院


 白くそびえる八階建ての病棟。
 その四階に、おれの祖母は入院している。
 明日には退院する、と聞いていたから、この病院に足を運ぶのも今日が最後だ。
 島幸恵さんが入院していたのは三階の病室。そちらをさきにのぞいてみる勇気はなかった。わかっている。そこに幸恵さんはいない。この世界のどこにも、あの老婦人はいない。死んだんじゃない。存在そのものが消えたのだ。幸恵さん──葵がそう願ったから。
 それを、おれはかみしめる。あれが唯一の解決策だった。けれども、全部が全部、納得できたわけじゃない。最適の解決策が最少の犠牲で済む解決策であるとはかぎらない。プラスがあれば、マイナスだってあるのだ。プラスは許容できるけれど、マイナスは往々にしてはかりしれないダメージをもたらす。いまのおれがそうだった。
 エレベーターで四階に昇る。すれ違う医師と看護師の一団。看護師のなかに美貌と巨乳でつとに名高い高橋さんを見つけた。白衣に包まれた胸の、ふたつのふくらみが目にまぶしい。「こんにちは」と声をかけると、にっこりと微笑んでくれた。よし。高橋さんを拝めただけでも病院に来たかいがあったというものだ。
 ナースステーションで面会者の名簿に名前を書き、いざ祖母の病室へ。
 病室の手前で一度、深呼吸。気持ちを落ち着けてから、室内に踏みこむ。
 声を低めた会話が聞こえてくる。祖母がいた。ベッドに起きあがり、こちらに背中を向けたふたりの女性と熱心に話しこんでいる。ひとりは中年の女性、もうひとりはセーラー服を着た高校生とおぼしき女性だ。
 祖母がおれに気づいた。ダブついた顎の肉を揺すって陽気に笑う。ふたりの女性が同時に振り向いた。
 おれは病室の真ん中で足を止める。目をむいた。
 中年の女性は──以前にも何回か会ったことがある──三村沙綾さんのお母さんだ。
 そして、セーラー服の女子高校生は……なんとなんと沙綾さんじゃないか!
「……え? 沙綾さん? なんでここに?」
「こんにちは、翔馬君」
 沙綾さんのお母さんがにこやかな笑顔で、
「ちょうどよかったわ。いま、あなたのハナシをしてたところよ」
「はあ?」
「こんにちは」
 沙綾さんが輝くような笑みを浮かべる。その笑みに感化されて、おれの口許が自然と緩む。すごい。すごすぎる。沙綾さんの影響力の強さはほとんど魔法のようだ。
「翔馬、学校の成績がよくないんだって? おまえの母親がしきりにこぼしてたよ」
 祖母が遠慮会釈のない放言を放つ。おれはムッとした。とりあえず、祖母のベッドの近くまで寄って、
「そんなこと、おおっぴらに言うなよ。みっともない」
「あん? おまえの勉強の面倒を見てくれって、沙綾に頼んでおいたよ」
「ちょっ……なんで沙綾さんに? 失礼じゃないか!」
 それに、沙綾さんを呼び捨てにするなんて、どういう了見だ?
 おれがいきりたっても、祖母はまったく斟酌しない。ますます放言がエスカレートする。
「いいじゃないか、別に。この際だから、みっちりと教えてもらいなよ。おまえ、好きなんだろ、沙綾のことがさ」
「……な?」
「ったく、男の子ってはどうしてこんなにだらしないのかね? 駿平は駿平で、野球のことしか関心ないしさ」
 沙綾さんが口許にこぶしをあててクスクスと笑う。おれは沙綾さんの顔色をうかがう。怒っていないようだ。なんだか様子がおかしい。おれの頭のなかでアラートが盛大に鳴り響いた。
 沙綾さんのお母さんが、おれの祖母に向かってヒラヒラと手を振った。
「お母さん、あんまりヘンなことを言わないの。翔馬君が困ってるじゃない」
「お母さん? おれのばあちゃんがお母さんって、どういうことですか?」
 三人の女性の視線がおれに集中した。みんな怪訝(けげん)な面持ちで、おれを凝視している。
 マズい。なにか致命的なことを口走ってしまったようだ。
 おれは凝固する。なにも言えない。これ以上よけいなことを言ったら、ますます取り返しがつかなくなりそうだ。
「……おまえ、頭でも打ったのかい?」
 と、祖母。心底、心配するような口調で。
「いや、別に。頭はなんともないから」
「わかった。おまえ、勉強したくないんだろ? いいじゃないか、沙綾に教えてもらえるんだからさ。成績優秀な従姉に感謝しなよ」
「……うわ、そういうことか」
 やっと状況を把握できた。
 島幸恵さんの存在が花鈴に上書きされて現実が改変された結果、沙綾さんはおれの従姉になったのだ。沙綾さんのお母さんは幸恵さんの娘じゃなくて、おれの祖母の娘──さしずめ、おれの母親の姉というところだろう。で、その娘である沙綾さんは当然、おれの従姉になる。
 ……こんなの、想定外だ。
 沙綾さんは、他人じゃなくなった。いまや親戚だ。
 でも、それを素直に喜ぶ気持ちにはなれない。おれだけは真実──改変される以前の世界を知っているから。
 沙綾さんは幸恵さんを憶えていない。最初から存在しないことになっているんだから、あたりまえだ。憶えていないから、悲しいという気持ちも起きない。幸恵さんの容体が急変して悲しみに沈んでいた彼女の姿が脳裏に思い浮かんだ。あれも、いまではなかったことになってしまった……。
「翔馬君、具合でも悪いの? なんだか顔色があまりよくないみたい」
 沙綾さんが表情を曇らせる。
 顔色が悪いのは、どうにもやりきれない気持ちでいっぱいだからですよ──そんな内心の地盤沈下は露ほども口に出さず、おれは精一杯の笑みで明るい表情を演出する。
「なんともないですよ。勉強、楽しそうだなって思うと、ちょっと頭が痛くなって……」
「だらしないねえ。イヤになっちゃうね、男の子って。沙綾みたいな孫娘だったらよかったのに」
「もう、お母さんったら、そればっかり……」
「大丈夫? ここは病院だから、お医者さんに診てもらう?」
 沙綾さんがおれの顔をのぞきこんでくる。現実が改変されても、沙綾さんの優しさは変わらない。そう、変わらないものだってたくさんある。いまはそれを大切にしていこう。
「あの、沙綾さん……おれに勉強、教えてくれますか? できれば明日からでも」
 沙綾さんはプッと吹きだした。
「どうしたの、急に敬語なんか使ったりして? 沙綾さんだなんて……わたしのこと、いつも『さっちゃん』って呼んでたじゃない」
 いきなり「さっちゃん」は、いくらなんでもハードルが高すぎる。せいぜい妥協して「沙綾姉さん」か。それさえも口にするのは、はばかれるけれど。
 それから病室で、おれの祖母、それにいまは伯母と従姉になった沙綾さん親子と三十分近く話しこんだ。祖母は明日、退院できるそうだ。おめでとう、とお祝いを言う。祖母がガハハと大口を開けて笑う。この祖母の孫が沙綾さんというのはどうにもムリがある。遺伝子が突然変異しているとしか思えない。DNA鑑定したら血のつながりのない赤の他人だった、なんて結果が出てもおかしくはなかった。
 沙綾さんは上品で、おっとりとしていて、優しかった。沙綾さんの微笑みに触れると、ついつい頬が緩んでしまう。勉強を教えてもらうのも悪くはない。楽しみがひとつ増えた。
 面会時間が終わったので、みんなで病室を辞去した。一階のエントランスで沙綾さん親子と別れる。