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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 四、知の章

INDEX|42ページ/48ページ|

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 ひらひらとはためく白布から伸びる四肢は細く、金やトルコ石を連ねたビーズで飾られている。紅や藍で染めた飾り紐が裾を彩り、振り乱された黒髪は豊かに波立つ。若い女――明らかに戦闘に不慣れな装束で、しかしそれは獣に憑かれたかのように荒々しく身を振り咆哮をあげ、振り返ったケオルに向かい大きく腕を振り上げた。
 キレスは夢中で彼の神杖を手中に現し、女の足元へ投げる。石畳を擦り、弾かれた杖の先が女の足をどうにかかすめると、寸でのところで女は体勢を崩し刃は空を切った。
 うまく回避させたにもかかわらず、キレスの胸には安堵どころか激しい動揺が湧いていた。女は下級神なのだろう、戦闘で精霊を扱えるほどの力もなく、気配など消すすべも持たぬとみえる。しかし今のキレスには、その気配をつかむことすらできないのだ。これほど近く迫っていても、目視するまでそれと気づかずにいた、その衝撃。また彼はこれまで、このような危機に晒された覚えがほとんどない。敵を遠ざけたいと思えばそうした力が自然と働いたからだ。――しかし今の彼には、これらを防ぐすべが何一つない。愚鈍な感覚、力として僅かにも具現化しない意思。その不自由さを、初めて身をもって知らされたのだった。
「きぃああああああ!」
 女が金切り声を上げた。獣のように四つ這いになると、その不気味な眼光がキレスに向けられる。低く唸り歯をむき出し、髪を乱して、女はふたたび腕を振り上げ襲い掛かった。その手に握る短剣の刃が欠けていることに気づいていないのか――女は憎悪の感情に激しく駆られ、冷静な判断力を欠いているようだった。生きながらにして再生者のごとく、非合理的かつ予測のつかない動き。まるで自我が壊れてしまったかのように、敵に執心する様子。その気迫のすさまじさに、キレスは釘付けられたように動けない。
 と、風の唸りだと思っていたものが急激に響きを上げ、それが唱えられた呪文であると気づいたとき、炎が生じ女の身を包んでいた。
 地に転がる女の、叫びあえぐ声。石畳の傍に群生する乾燥した草に火が移り、それは明かりを灯すように地に広がりゆく。
「早く来い!」
 ケオルが叫んだ。肌に熱風が迫る。キレスは立ち上がろうとして肘に力を加えた……しかしその途端、がくりとその支えが失われた。とっさに身を支えようとした反対の腕も即座に崩れ、キレスは再び背を地につけた。
「……!?」
 力が入らない。立ち上がるどころか身体を支えることも困難だった。何が起こっているのか把握できないうちに、体ががたがたと震えだす。止めようと身体を押さえつけるように身を縮めるが甲斐なく、やがて寒いという感覚が遅れて意識にのぼった。火が迫っているにもかかわらず、手足が氷のように冷えてゆく。一方で身体の芯は焼けるように熱く、じわりと汗がにじんだ。
 はっ、はっ、と浅い呼吸が繰り返され、息苦しさに喉を仰け反らせる。
 次第に視界が、意識が、白い霧に呑まれてゆくように感じた。
 朦朧とする意識の中でキレスは、その霧が人の姿をとるのを見た。
 しかしその正体をつかむことなく、意識は否応なく霧の奥に吸い込まれ、それと同じになって、消えてゆく――。

      *

 キレスのもとに駆けつけようとしたケオルは、うっすらと漂う霧に思わず足を止める。
 見れば女を包む炎が消し去られていた。白霧はそこから立ちのぼるようにして生じ、女の周りをとりわけ濃く覆っている。
 いつの間に現れたのか、霧のうちに人影が浮かびあがった。膝を折り女を抱き上げると、滝のように流れるその長髪がさらりと広がり地に触れる。その様子ばかりが印象づいたのは、白く丈の長い衣に身を包み、その肌の色も比較的薄く、霧に溶け込むように見えていたからだ。
 ケオルはそれを警戒しながら、草間にくすぶる火を踏み分けキレスに近づく。
 長髪の人物は、用いる力、外観ともに水属神に違いない。ケオルはそれが「セルケト」である可能性を考えていた。キレスのあの様子は、明らかに毒物によるものだ。治癒力に長けた水属第一級「医神セルケト」は、その象徴物がサソリとされる通り毒物の生成をも得意とする。女の刃物に塗りこめられていたのだろう、それはおそらく神経毒。即効性はないがじわじわと死に至る危険がある。
 普通の毒であればケオルにも治療可能だが、「セルケト」のものであれば話は別だ。特有の技を破るためには、単独では不可能という法則があるからだ。
(それでも、同じ『セルケト』なら解毒できる)
 すぐにでも南へ戻ろうと考えていた。キレスの問題だけではない、敵がこれ以上増えると厄介だ。
 ただし先ほどキレスがぼやいたとおり、移動には手間がかかる。この状況でその最善手を簡単に打てるとは思えない。
(攻撃して退けるか、安全圏を確保し移動するか――)
 そうして思案するうち、北の水属神は女を抱えたまま静かに顔を上げ、敵を見定めるかのようにキレスを、次いでこちらを捉えた。その顔面にくっきりと浮ぶ瞳の彩、それはトルコ石のような冴え渡る淡青色。
 さっと血の気が引くのを感じた。――水属の長「水神セテト=ケネムウ」。考えうる最悪の相手である。攻撃の力がさほどないと言われる水属も、属長だけは例外であるのだ。
 いくつか用意された選択肢は一転すべて捨て去られ、空になった脳に動悸ばかりが響く。ケオルはちらと塔門を見遣った。もう少しで開くあの扉の向こうへ行けたなら、強固な結界が安全を保障するだろう。しかし……、
(駄目だ、キレスはどうする)
 ひとりだけ逃げ延びるなどできるわけがない。もう二度とあんな後悔はしないと決めたのだ。
(でも、何ができるっていうんだ)
 策がなければ二人ともまざまざと殺されるだけだ。……激しい焦燥に駆られ歯軋りする。足元の草間にいまだ残る火が、急き立てるようにちらちらと燃える。
 と、そのときケオルは、こちらに向けられた水神の瞳がくっと細められるのを見た。そこにはくっきりと、憎悪が色濃く浮かべられている。
「お前は……『月』」
 低く漏れた男の声。その視線が首もとの紅玉髄にあると知ったとき、ケオルの脳裏にひとつの道筋がさっと閃き示された。
 そうして彼は、口角を持ち上げその言葉を肯定した。――精査する暇はない、やるのだ。これは始めの一手……勝ち目の薄いこの状況を打破するための。
「兄弟がいたとはな」
 北の水神、デヌタはちらとキレスを振り返り言った。
「そう。双子のね」
 ケオルは胸のうちを覚られまいとするようにか、デヌタの問いに明確にそう答えた。そうして油断なく敵を見据えたまま、じりじりとキレスに近づく。
(どれくらいもつか……あまり長くはないだろうな)
 そのうちに、うまく仕掛けねばならない。利用するのだ――虚偽を、そして事実をも。
 水神デヌタは抱える女に視線を戻すと、ささやくように語りかけた。
「ハピ神は月を追うなと言われたが」女の頬にもう一度、いたわるように触れてやりながら。「これは、運命だ。そうだな、スー」
 そうして水属の精霊を呼び寄せ、女をこの場から去らせた。……ここが戦場となるために。