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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 四、知の章

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 兄のときと同じだ。それはどこかふしぎな、けれど自然な感覚だった。今でもそうした考えが完全に無くなってはいないのだろう、けれどそれでもよいと、自身を赦せているようだった。
「力を失った、か」ヤナセはそう言うと、ふっと息を吐いた。「これで良かったのかも……しれんな」
 その意味がケオルにはよく分かった。記憶を戻してからの、キレスのあの激しさ。何も枷などないというように思うままに振舞う彼は、感情があまりに率直に現れすぎていた。自分は兄弟だからとどうにか流せても、他者はそうは行かない。このままではと先を危ぶんだのは事実だ。
 そうした問題が減るのだと考えれば、確かにそれは歓迎されることだろう。けれど、力を取り戻した彼が話した言葉が、その自由闊達な様子が思い出されると、そうした彼の中の自然――心からの喜びを得、それを素直に認められるということ――が失われたこと、それを持たなかった「以前の」彼の状態に戻されたことが、はたして彼にとって「良い」と言えるものだろうかと、そうも思われるのだった。
「シエンはもう来ているようだな。西はどうするのだ、連れてきてはいないようだが」
「あいつが居ない間、西は技神カナスが代わりに守るってさ。……東は?」
「なるほど彼女らしいな、それでは中央は空になるのか。――ああ、こちらはマキアが一人で留守番だ」
 頑固だからな彼女は。ヤナセはそう耳打ちする。
「ヒスカは? もしかして子供も連れてきてるのか」
 ヤナセは答える代わりに顎で後方を示した。振り返ると幼子を抱いたヒスカが、その小さな手を取ってこちらに振っている。
 危険じゃないのか。ケオルが訊ねると、だからこそだとヤナセは言った。医神としての彼女はそれを務めと考えているのだと。
「妻もずいぶんと落ち着いてきたようだ」
 ヤナセはそう言って手を振り返す。
「息子もなかなか手ごわくてな。私が留守の間に部屋じゅうに墨を撒いて大はしゃぎだ。あれは将来、知属を志すかもしれんぞ」
「それは大変だ、俺かなわないよ」
「頼むぞ、お前しかいないんだからな。将来の息子の師となるのは」
「ちょっと待ってよ、何年後だよ」ケオルは苦笑しながら、「父親が見てやるほうがいいんじゃないの。あなただって『学校』ペル・アンクに通ってたじゃないか」
「中退したがな。『先生』は知属に決まってるだろう」
「俺じゃなくても……マキアがいるじゃないか、彼女が適任だよ。俺は呪文の研究しかしていないし、知識が偏ってる」
「おいおい、なぜそんなに嫌がるんだ」
「嫌なわけじゃないけど」と、ケオルは言いにくそうに顔をしかめる。「俺のやり方はちょっと例外的だと思うから……戦だからと理由をつけて、普通は広く積み上げていくべきものを、狭く絞ってやってる。実利を求めるためにだ。あまりよくないなと思ってるんだ」
 マキアがそれを許すから甘えているけれど。そう言ってケオルは肩をすくめる。「人が少ないとほんと、やりたい放題だよな」
「だがそれが必要であれば、今の時点で最善の選択と言えるのじゃないか? 利を取ることは、悪ではない」
 ヤナセは言うが、ケオルは黙って息をつく。するとしばらく、ヤナセのあの自在に移ろう瞳の色彩がじっとケオルを捉えた。
「戦が無かったなら、自分は属長になどなれなかったのだと。そう思っているのか」
 はっと顔を上げると、ヤナセはにやりと笑った。
「私も同じだ」そう言うと彼は遠くに目を馳せる。「友人に、同じ風属を志したものがあった。彼こそが風属の長を継ぐにふさわしいと誰もが考えた、私もそう思っていた。あるいは私は、知属を選ぶのもよいかと、そう思うことさえあったよ」
 ケオルは意外そうにヤナセを見る。聞いたことがなかった。彼こそは風属の長に相応しく、その身その姿が風属というものを表しているのだと、ずっとそう思ってきたのだ。
「しかしケオル。これは、運命《シャアイ》の御業だ。こうなった以上、我々のやり方で選択していくしかなかろう。犠牲になったものたちのためにも、堂々と生き、その生きざまを刻み付けるまでだ」
 たとえその道がいびつに曲がりくねっていようと。彼はそう言った。
「お前のやり方が、これまでの道を外れているというのならば、その外れた道からしか見えぬものがあるはずだ。そうじゃないのか?」
 ヤナセは笑みを浮かべて言った。力強い笑み。対象を煽動しそれらを幾重にも増す風属の力、そのごとく。
「私は、そうしたものが見てみたいと、思うがな」

      *
 
 キレスは、中庭を囲む仕切壁にもたれてぼんやりしていた。
 眠れない。廊下をぶらぶらしてみたが、手持ち無沙汰で部屋に戻った。ビーズを触る気にもなれず、また横になってみるがやはり眠気はやってこない。じっとしているのも落ち着かず、再び部屋を出たのだった。
 胸の奥にわだかまるものがある。目が覚めてからずっとそんな調子だった。激しく振りほどきたいと思うほどの不快ではないが、喉をふさぐように感じて息苦しい。それが押さえつけているのか、何をするのもひどく億劫に感じた。
 力を失ったこと。それは以前に戻るのとは違う。持っていたものを失うことは、持たないよりずっと残酷だ。
 あれほど美しいと、強く心を引かれていた血の赤にも、今はさほど心が動かない。美しいとは思う、けれどあれほど強烈に思うことがない。心が湧き立つことがなくなってしまったのだ。
 たった数日であるのに、もうずっと昔のことであるように、キレスにはあの感覚を再起することができなかった。ただ、強い悦びであったという記憶、それだけがわずかに残され、それへの羨望があるばかり。その羨望すら、以前はそれのために意識がすっかり占められていただろう、そうした感覚、心の動きそのものが、なくなってしまった。
 常に満ちてすぐにあふれ出すようだったものが、すっかり空になってしまった。どれだけ注いでも、溜めることすらできなくなった。まるで底に穴でも開いているかのようだ。
 この、虚しさ。ただ力を失ったというだけで。
 できることの幅が狭まるのだろうとは思っていた。体が重く感じたり、さまざま不自由が増えるかもしれないとも想像できた。けれど、心が虚しさに囚われようなどとは思いもしなかった。
 力を持たないということは、こんなにも、空虚な心持ちになることなのか。
 ずっとこうした寒々しい思いに支配され、生きていかねばならないのか。周りのほぼすべての存在がそうであるのだと思うと、どこか憐憫に近い思いが湧く。自分も、今やそれと同じになってしまった。それを思うとき、キレスはしかし諦めとは違う、まるで他人事のような思いを呆然と眺めるだけだった。過去を思い後悔する、そうした心の動きすらなくしてしまったように。
「キレス」
 呼びかける声。それはケオルの声だった。ちらりと目線をやり、キレスはまた中庭を向く。
 ケオルが歩み寄り隣に立った。中庭――いま太陽神と力ある神々が集い準備をしている最中である――を眺め、もう一度キレスをうかがうと、その目が何も映してはいないと気づいたのだろう、彼は小さく息をついた。
「暇なんだろ」
 ケオルが言った。キレスは返事をしなかったが、それが分かっていたように彼は続けた。