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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 四、知の章

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下・真実の名・1、喪失



 上下する肩、玉のようにはじける汗。
 カナスは中央神殿の中庭から、澄んだ水色をした朝の空を見上げた。
 西に傾く、うっすらと白い月。数日前に真円を描いていたそれは、今、半ば近く欠けている。
 欠けゆく月。――新月が、近づく。この、戦の、終わりが。
 カナスは肩にかかる黒髪を払うと、ふうっと息をついた。北の襲撃を受けた夜から、もう半月経った。カナスは身体が回復してからすぐに、いつもの……いや、いつも以上の鍛練を積んだ。そうせずにはいられなかった。
 目を閉じれば今でも、まぶたの裏にくっきりと浮かび上がる、あの光景。
 太陽神ラアの、あの、力。躍り狂う無数の黒蛇、そのまがまがしさに抱いた恐れ。圧倒的な「力」の存在。
 思い出すだけで、身体が知らず震えだす。畏怖――その言葉がぴたりとはまる感覚。
 幼い未熟な王との印象は、いまや払われていた。しかしまた、はじめに誓った技神セクメトとしての彼女のあり方――王を支え、その力となるもの――も、今は揺らいでいる。
(支える、……私が?)
 それを考えるたび、あの光景が浮かび、彼女を呑み込むのだ。
 あの力。圧倒的な、まるで次元が違う力。その主。その前では、自分など蟻のように小さい。ちっぽけすぎて、まるで話にならない。
(力を、――もっと、力を。この程度では……)
 焦りが彼女を駆り立てる。
 その根底にあるのは、十年前の戦。目の前で失った両親のことだった。
 カナスの父は口数の少ない男だった。黙って、いつも背を向けて、土をこね器や壷を作っていた。その、大きな背、どっしりとして、頼りがいのある背を、カナスは見て育った。母はその傍らにあり常に父を支えていた。父の横にある母の身体は、ずいぶんと細く小さく、か弱く映った。幼心に、それは誰かが……自分が、父が、守るべきものなのだと思っていた。
 二人の死は唐突で、あっけないものだった。戦が始まってまもなく、父は母を守り、ただ一撃で果ててしまったのだ。反撃することもなかった。それどころか……母を庇いきる事すら、できなかった。
 悲しみを超えた衝撃が、幼いカナスの胸にくっきりと焼きついた。
 非力なものとは、なんと惨めなことだろう。父のあの、大きく丈夫そうな背が、こんなにも易々と崩れ去ってしまうなんて。
 そして母は、ただ守られ、結果大切な人を危険にさらすことになってしまったのだ。
 彼女は無力を恐れた。守るべきものを守りきれないこと、また、誰かに守られその人を危険にさらすことを。
(力を、もっと、得なければ)
 けれど今、彼女が守るべきものは、その守りを必要としてはいないようである。また、彼女を守るために、自身が危険に陥るという心配も、ないのではないか。
 ――事実に鑑み、自意識を問い直すことを、しかし彼女はしなかった。ただ内なる声の求めるままに、自身を急き立てる。
 カナスはぐっと槍を握り、瞳を鋭くすると、感覚を研ぎ澄ませた。
 と、その耳に、たたた、と石造りの床を素足で駆ける音が届く。
 不規則な足音。そして、重なる笑い声。広い中庭を囲む柱廊に、ラアの姿があった。彼は、ゆっくり歩む友人カムアの周りを飛び跳ね、ときに立ち止まって同じ歩幅で歩いてみたりしながら、楽しそうにここを通り過ぎる。
 いつもの光景だった。カムアの容態が回復してから、ラアは毎日こうして一緒に前庭へ向かった。木陰を散歩し、たわいのない話をし、昼寝をし……、ラアが庭園中を駆け回ったり転げまわったり、思いつきで池の精霊を呼び出し、灯の精霊と競演させたりすると、カムアはそれを楽しそうに眺める。彼らはこうして――南で会っていたころのように――、ただ一緒にいることを楽しんでいた。
 以前のラアは、カナスの顔を見れば、特別用事がなくても声をかけていたが、そうしたことはずいぶん少なくなっていた。二人でいることが楽しくてしょうがないのだという様子で。他にものが目に入らないというように。
 まるで、戦など無縁であるかのように。
 そうしたラアの態度にも、カナスはもう不満を覚えることがなかった。ただ彼を見れば――今はあのように無邪気な笑みを見せ、子供のように声を立てているけれども――、あのときの、あの力を思い出し、ひどく不安感を煽られるのだ。
 それを振り払うように、彼女は槍を振り上げ風を切る。びゅ、びゅ、と空気がふるえ、黒髪がひとまとまりになって大きく揺れ動く。すっと踏み込み、身を翻す。
 何度も何度も、繰り返し――。
 そうして、日が高く昇り、日差しが強くなるころ、彼女は一息つき、一度その汗を流しに戻るのだった。
「……?」
 汗に濡れた黒髪を背に払い、中庭をあとにしようとしたとき、視界の端に人影をとらえた。
 西に住まう、大地神シエンだった。
 彼がここに来るのはさして珍しいことではない。友人をたずね時折やって来るのだ。――けれど、今日は別に用があるのだろう。
 カナスは、昨日ラアに聞かされたことを思い出し、そう考えた。
(午後にひらかれる、臨時の議会のためね)
 臨時の。――すこし、不吉な響きだ、と、カナスは思った。

      *

 シエンは、中央の自室にある備え付けの長椅子に腰を下ろし、そっと息をついた。
 近頃は、ここに来ればたいてい、友人と顔を合わせていた。ケオルかキレスか、あるいは両方に。そうして彼らに会えば、南で過ごした頃と変わらない、くつろいだ時を過ごせる。彼はそうして、ときどき西の喧騒を逃れるようにここを訪れていた。
 会議までまだ時間はある。けれども今、友人に会おうという気にはなれなかった。そもそも、キレスとは、会いたくとも会えない。
 数日前にそのことを告げたのは、ケオルだった。
「キレスが、昏睡――?」
 絶句した。激しく動揺しながらも、憤りに似た感情が湧きあがるのを感じた。このときケオルはその事実を、まるで話のついでのように伝えたのだ。日常の、通りすがりの、ちょっとした雑談のなかで、ちょうど話がそれに触れたために伝えただけだというように。
 まるで、なんでもないことのように。
 もう一度、この友人をまじまじと見つめる。その表情からは、深刻な様子も、悲しみをこらえているようなそぶりも、見えてこない。
「いつからなんだ」
「一昨日かな」
 ちらと視線を宙にやり、ケオルは顔色を変えずそう答えた。
「傍にいてやらないのか」
 低く問うその声には、わずかに批判の色を混ぜていた。それに、ケオルは気づかなかったのか、あるいは気づかぬふりをしたのか。
「できることもないし、他にやることがあるから」
 さらりとそう言い放つと、その場を後にしたのだった。
 信じられない――そんな思いが何度も湧き上がった。できることがないからと、そういう問題ではないはずだ。事実そうであっても、あんな態度が、物言いが、できるものだろうか。あまりにも冷たいと思う。血の繋がらない自分でさえ、こんなにも心が乱されるというのに。