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松橋オリザ
松橋オリザ
novelistID. 31570
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立ち読み版 セーヌのほとりで待ってて

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 総統であるヒトラーは、ドイツ民族は「アーリア人」と呼ばれる卓越した人種であると公言していた。
 男同士にしろ女同士にしろ、同性愛者は子孫を生み出さない。
 アーリア人が増えることを奨励するドイツにとって、同性愛者達の性的嗜好は、国家の維持を妨げる脅威でもあったのだ。
 同性愛者のレッテルを貼られ姿を消したのは、ユダヤ人でもなくポーランド人でもない。ほとんどがドイツ人だったという事実が、それを裏付けている。そして、同性愛者狩りが行われた場所も、ほとんどがドイツ国内でだった。
「パリで同性愛者狩りが、全く無かったというわけではないと思いますよ」
 気付けば、アンリの胸に言い表せないほどの焦燥感がせり上がってきていた。
「どういうことなの? まさか、アンリも似た経験があるとでも?」
 ルネは、努めて淡々と話すアンリを意外そうに見つめ返す。
「恋人ではありませんが、パリ音楽学校の時の親友が、ナチスに追われて大ケガをしたことがあるんです。彼は、男性講師と恋愛関係にありました……」
「そう言えばアンリ、音楽学校に通ってたって、言ってたわね」
 ルネは、アンリの言葉をかみしめるようにしてのぞき込む。何一つ、聞き逃すまいとするかのように。
「はい。中退ですが……」
 目を伏せると、学生時代のことが走馬燈の様によみがえり、のど元が息苦しい。同時に、胸も締め付けられるように痛くなった。
 それは、早く忘れてしまいたいと思うほどに浮かび上がってくるつらい過去……。アンリは事件の起きたあの夜を振り払うように、ぎゅっと目をつむった。
 当時のアンリはその友人とともに、パリ音楽学校のピアノ課に在籍していた。
 そのケガが原因で友人は学校を去り、その後、アンリも後を追うように中退したのだった。
「そう……戦争で、イヤな思いをしてない人なんていないってことね。そんな時代に比べたら、今は何て幸せなんだろうと思うわ」
 はあ……というため息とともに、自らを納得させるように目を伏せるルネ。彼が口を閉ざしたことで、再び湿度の高い沈黙が流れ出していた。
「きょうはもう、お客さんも来ないと思うの。賭けてもいいわ。どう?」
 ふとルネの声音が変わった。
 前向きなのは、彼の良さでもあると思っている。
 だが、その口からこぼれ出た言葉は、拍子抜けしてしまうほど現実的で、アンリは戸惑いながらも、あわてて首を振った。
「賭けません。縁起でもない。ますます閑古鳥が鳴くようになったら、どうするんですか!」
 ちょっと強い語調で返したが、アンリも実は同じことを考えていて、掛けにはならないだろうと思ったからだ。
「アンリって、二十歳だっけ。若いのに、堅いこと言うのねえ。たまには、息抜きも必要よ。てか、あなた、本当にゲイなの? 時々、信じられなくなるわ」
「二十一ですが……え、どうしてですか?」
 アンリは、その年齢より幼く見られる大きな瞳を見開いた。
「だって、そこそこ可愛がられてるくせに、昵懇《じっこん》の旦那さまはできないし……。それだけの美貌を有効活用しなけりゃ、バチが当たると思うの」
「どこが美貌ですか。頭のてっぺんからつま先まで、コンプレックスばっかり。昔、愛想つかして僕から去っていった恋人だって、男ですよ。これでも、ゲイの端くれだと思ってますけど?」
「へえ。ふられたんだ。その男がいい男すぎて、ここにやってくる客がイモに見えてんじゃないの? 自称、高級クラブの看板が泣くわね!」
 「いーっ」と顔をしかめるしぐさは、いたずらっ子みたいだ。
 目上の男性だというのに、不思議とリラックスした空気が漂うのは、こんな彼のおちゃらけのせいだろう。
「そんなこと、思ってません。ここで、お相手させてもらったお客様は皆さん、パリジャンらしい紳士ばかりでした。それから、僕のモト彼はぽっちゃりで、若白髪を気にし始めた普通の人でしたよ」
 自分は切りかえは早いほうだと思うが、その彼と自然消滅してからいろんなことがありすぎて、恋愛どころじゃなかった。
「信じてあげるわよ。何にしても、もっと貪欲になって、売り上げ倍増に協力して欲しいのよ。わかった?」
「はいはい。じゃあ、次にあの入り口に現れたお客様には、渾身のサービスをさせて頂くことにします。まあ、今夜はこのまま後片付けになるかもしれませんが」
 アンリはこう言って、ドアを指さした。
 たぶん、誰も来ないだろう……と思うと、憎まれ口の一つもこぼれ出る。
 まっとうなルネのアドバイスは、アンリの尻を叩くに充分だった。
 その時、「カランコロン」とドアのカウベルが鳴り響く。
 薄暗い店内に流れる、落ち着いたシャンソンのインストルメンタル。それに、靴音が交差する。店の扉が開くと同時に、湿り気を含んだ空気が這うように入り込んできた。
「あら」
 ルネの視点が、遠くに飛んだのに誘われ振り向くと、店の出入り口に人影があるのに気付いた。
 どうやら、客とデートを済ませたべべのお帰りらしい。
「はーい、お帰り。ご苦労だったわねえ」
 ルネがハイトーンの声で出迎えると、そこに立っていたのはべべでなく、三十歳前後の長身の男性。彼を見たルネが動揺し、思わず言葉をのどに詰まらせた。
「ボンソワ《こんばんわ》」
「あ、い、いらっしゃいませ」
 堅い言い方で先に挨拶をされ、面食らったアンリが慌てて立ち上がる。
 見たことのない初めての客で、おだやかさの中に、野性味を感じさせる気骨をただよわせていた。
「この店には、感じのいいべべがそろってるって聞いてね。彼を独り占めしていいのかな?」
 男はアンリの肩に手を置くと、ルネに同意を得るような視線を投げかける。
 少なくとも、たいくつしない程度の存在感を保てたということだろうか。
「も、もちろんですわ」
 元々ハスキーなルネの声が、ひっくり返っている。
 その男はすらりとした体型でありながら、シャツに包まれた体には気丈夫さを漂わせていた。



                        つづく