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松橋オリザ
松橋オリザ
novelistID. 31570
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立ち読み版 セーヌのほとりで待ってて

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セーヌのほとりで待ってて







 霧雨に窓からの光があたって、粉雪のようにキラキラと輝いている。パリ解放の日から約一年がたった、一九四五年十月。深夜零時のパリは、小雨に煙っていた。
 ターコイズブルーのネオンに照らし出されたメゾン・ド・オム《紳士の館》の文字。この店の名であるそれが、窓の外にぼうっと浮かび上がっている。
 そんな店内のお気に入りの窓辺に、アンリは腰を下ろしていた。
 傘をさした人が、店の前を足早に通り過ぎていく。いつもなら、客待ちをするいかにもそれとわかる売春婦がうろついているのだが、さすがにこの雨で一時撤退を余儀なくされたようだ。
 「紳士の館」は歓楽街を入った裏通りにあり、あたりには小規模なキャバレーや風俗店が、ひしめき合っている。
 パリがドイツの占領下であった頃は、ドイツ兵と腕を組んで闊歩するフランス女性をこの窓からよく見ることができたものだ。
 ドイツが、連合軍に降伏したことで訪れた「パリ解放」。それをもって、フランスはドイツから解き放たれた。
 あの日のことは、アンリの脳裏にハッキリ焼き付いている。
 戦争終結の喜びに沸くシャンゼリゼ通りでは、パリ市民と自由フランス軍の車輌が行進する。歓喜の声を上げる人々は、この店の前の小路まで埋め尽くしたものだ。
 今、映画のスクリーンと化したガラスの窓が、それらをドキュメンタリーのように写し出していた。
「ふ……」
 いつの間にか、追憶に首まで浸かっていた自分に、苦笑してしまう。
 次々と、現れては消える一年前から今まで……ため息がまじってしまうのは、全てが昨日のことのように感じられるからだろう。
 ガラスに映る存在感のない自分の顔も、今の空気にぴったりだ。
 いつもなら、自分の髪はふわっとしてくせのあるブロンドだが、湿気でなんとなく伸びた気がする。
 二十一才になっても、未成年と間違えられる小造りな面立ち。そして、コンプレックスにもなっている、頼り無さげで華奢な体つき。ユニフォームである白いシャツにグレーのベストと、細身のノータック・パンツのせいで、なおさらそれが誇張されるように感じる。
 パリでは、売春婦が強引な客引きをするのは違法だが、売春行為そのものは違法ではない。
 売春ですらも、それは個人の自己責任。市民のプライバシーに、土足で踏み込むことのないパリスタイルが、アンリは嫌いじゃない。
 ちなみにアンリが勤めるここ「紳士の館」は、男同士の秘密の出会いをとりもつ会員制デートクラブ。アンリ自身も、女性に心奪われることのない男娼だった。
 アンリをはじめ、ここで春をひさぐ男子は「べべ」と呼ばれ、客はべべの了解が取れれば、外に連れ出すことができる。恋人同士を気取ってカフェに入るのも、ルーブル美術館を見て回るのも、もちろんベッドをともにするのも自由だ。
 雨はやみそうもない。
 うっとうしさが募る中、窓辺に置かれたミントの鉢だけがさわやかな香りを漂わせている。日曜日だった昨日、すまい近くにあるマルシェ《朝市》で二個買ったうちの一つで、もう一個はアパルトマンに飾っている。
 毎週月曜日は客の少なさから、スタッフも少ない。
 おまけに、雨という、巡り合わせもあるだろう。一人のべべが客と出かけたまま、すでに三時間。たいして広くもない「紳士の館」の店内には、アンリと、オーナーでベテランべべであるルネとの二人だけだった。
「今夜はヒマですね……」
 ほお杖をついたまま室内に目を転じ、つぶやいてみた。自分の声のうんざりしたような響きが、いっそうの閉塞感をもたらす。
「多分、こんな夜に、私の大切な人が連行されたんだと思うと、いたたまれないわ。あ、ごめんなさいね。戦時中の話なの……」
 オーナーであるルネが、やや鼻にかかったけだるい声音でつぶやいた。
「え?」
 明らかに、それまでと違うトーンのルネに、声の方を降り向く。アンリの視線の先で、ルネは何かに魅入られた様に窓の外をみつめていた。
 ここでべべになって一年半、ルネの風体にはもう慣れてしまったアンリだ。だが、もしこんなふうに女言葉でしゃべる男性と出会ったら、誰でもギョッとするだろう。
 格闘家とよく間違われるという、逆三角形の上半身。ロマンスグレーとおしゃれな口ひげが都会的なルネは、生物学的にも戸籍上も立派な男性だ。
 べべ達の噂では、年齢は五十に近いということだが、その精悍そうな体躯は三十代中頃と言っても通りそうだ。
「その彼がね、『これから、ドイツのザクセンに帰省するんだ。お土産、楽しみにしてて』って……ここで別れたのが最後。噂では、ナチスの同性愛者狩りにあったんじゃないかって……。ドイツの友人のツテを使って探してみたけど……とうとう、何もわからなかったわ」
 くるりとカールされたルネの睫毛があがっていき、うつろな視線をただよわせる。そのまま、ルネは声を詰まらせた。
「ナチス……」
 ルネの言葉に続き、アンリもその言葉を口にしていた。
 ナチスは、大戦中のドイツ国防軍の武装組織として有名だ。だが、ナチスが男性同性愛者を異常で男らしくない行動と見なし、弾圧したことは世界的にはあまり知られていない。
 ナチスの過激武闘組織、親衛隊《SS》は、ドイツ国内の同性愛クラブを次々と襲撃した。そして、多くの同性愛者を逮捕し、強制収容所に送り込んだという黒い歴史を持っている。
「え? オーナーの恋人って、ドイツ人だったんですか? 戦争が終わって、収容所が連合軍に解放された後も、行方がわからないんですか?」
 ルネの恋バナを聞いたのは初めてだ。太っ腹で、あまり悩みなんかなさそうな印象だったから驚いた。
「ええ。帰って来なかったわ。だけど、あの人が死んだなんて思えない。きっと、新しいべべができて、今どこかで幸せになってるんだって、思うことにしてるの」
 ふうとため息を吐きながら、ルネはやるせなさげに瞳をさまよわせる。
(オーナーが、これほど失意の表情を……しかも、自らの恋バナで……)
 想像もしていなかった事態に、アンリは戸惑う。
「そう……だったんですか……つらいことを思い出させてしまって、すみません」
 アンリのフォローに、ルネは「ううん」と小さく首を振り、顔をゆがめて笑んだ。
 ルネは、悲壮感を滲ませてしまったことが、照れくさかったのかも知れない。振っ切るように、チンと鼻をかんだ。
 そんなルネのリアクションに少しだけ癒され、ため息の混じったような笑みを浮かべてしまう。
 同性愛を禁じる法律を強化したナチスは、同性愛者間の友情ですら犯罪にしたて上げ、情け容赦なく摘発した。
 この罪を犯した者は、たとえ軍人や高官でも刑に服さなければならないほどの大罪だったという。
「フランスで同性愛者狩りがなかったのは、不幸中の幸いよね。あったら、今頃ここでこんな商売はしてられなかったわ」
 ルネは、スポットライトに照らし出された壁の絵に目を移す。
 フランス庶民の日常を表したロートレックのポスターで、彼のお気に入りのものだ。
 それを見つめて、目元をゆがめるルネのまなざしには、隠しきれない悲愴感が浮かんでいた。問いかけるアンリの胸までが、絞られるように痛い。