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拝み屋 葵 【参】 ― 西海岸編 ―

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 その日もまた、ジョーはボブの気まぐれにつき合わされていた。ピアス・ブラザーズ・ウェストウッド・メモリアル・パークは、一見すれば公園にしか見えない静けさと規模の小ささを持っているが、ハリウッドを代表するスターたちが多く眠る場所として、密かな観光名所となっていた。まやかしの賑わいに疲れ果てたヒーローやヒロインが骨を休める場所としては、まさしくうってつけに違いない。そのときも、これ以上ないほどの穏やかさが、辺りに漂っていた。
『ディーン・マーティンの墓に行きたいな』
『俺、行くの初めてなんだよ』
 ジョーの遠慮がちな提案を、ボブは聴こうとしない。薬で作り上げられた高揚が、静寂を乱していることに、ジョーはこの上ない申し訳なさを感じていた。
『生まれも育ちもロスなのに。近いと意外と行かないんだな。えーっと、ナタリー・ウッドだろ、それに、誰だ。あー、畜生、これが一番大事なんじゃないか』
 踊りだしそうな軽いステップで、くるりと振り返る。
『ブロンドの、すっごい……美人。最高にゴージャスな女だ』
『誰だっけ』
『思い出せよ、馬鹿』
 本人は笑っているつもりでも、捲れ上がった口角は、どこまでも猥雑にしか見えなかった。
『一時期、彼女の映画見ながら、毎晩な』
 耳打ちするように告げられた台詞に、ジョーは思わず顔を顰めた。
『最悪』
『だって、色っぽいんだもんよ。あのバス停の』
 ボブの身体がジョーの視界から消えたのと、言葉が消滅したのは、ほぼ同時だった。
「足を踏み外して、溝に落ちちゃって」
 左足首靭帯損傷。全治4週間。
「自業自得やんか、なぁ」
 憤慨したといわんばかりに、葵は頷く。
「そうなんだけど……あいつ、変な事言ってたんだ。『後ろから頭をガーンって殴られたような気がした』って」
 一つだけ蓋のない排水溝を見下ろしながら、ジョーは言った。
「それに、この辺りで似たような事故が多発してるんだって。ありえないところで怪我してる奴」
「うん、うん。分かるで」
「それで、知り合いに話してたら、そりゃ何かの呪いじゃないかって」
 ヴァルが近々プロデュースする映画を監督する男の友人の恩師の同僚が東洋民俗学を専門にしていたことが縁で、葵は13時間も飛行機の中で揺られる羽目となったのだ。
「何か、分かった?」
「うん、それは愛やな」
「愛?」
「そう、愛や」
 こちらを振り向いた葵は強く首を振った。
「永遠の愛やで。本当に愛してたんや。たまたま別れてしもたけど」
 どこかうっとりしながら、言葉を続ける。
「それでも想いは変わらんかった。泣けてくるわ」
 夢を見ているような瞳は、今まで掴みどころのなかった彼女の纏う空気を少し緩めた。隙間から覗いたその色を、ジョーは表現する事が出来なかった。一つだけ言えるのは、不意打ちでやってきた胸の締め付けは精神安定剤で抑える事など到底できないほど、鋭く、素早く、深いものだったということだけだった。
「えらく、熱心だね」
 もどかしさは照れにかわり、ジョーはぶっきらぼうに言った。
「愛って」
「そうや。うちも、そんな恋してみたいわ」
 胸の前で拳を作った、女の子らしい手が、やけに白く、小さく見えてしまう。
「ロマンチスト」
 一人ごちるような呟きは、今までこの単語を口にした中でも、最上級の優しさで言った。すぐさま苦さに変質した自らの台詞に、ジョーは自嘲を唇の隅に浮かべた。
「分かる。うちはあんたの事、応援するで。ところで、相手は誰なん」
「葵」
「ほんま、あんた男前やなぁ」
 言葉尻に篭った熱はますます上がる。再び俯いて、ジョーは小さく嘆息した。馬鹿げていることは最初から分かっていた。むしろ、こんな事を考えるなんて予測していなかった。笑みは更に広がり、同時に情けなさが心に染入った。落ち着きたい。この疼痛を消してくれるなら、なんだって飲んでやるとまで思った。
「葵、誰に話してるんだい?」

 墓には赤い薔薇を。生前彼女が好きだった花だ。
「もう供える事は出来へんようになったけど、今でもずっと、彼はここに来てるねん」
 墓地でも一番人気の区画には、世界中から愛された女が眠っていた。ロッカー型だなんて、と最初はジョーも驚いたが、ミステリアスな最後を迎えた美女には、案外ふさわしいかも知れないと、実際に見てみれば思う。どんな場所にいたとしても、献花が絶える事はないだろう。
「ジョオ・ディマジオにバットで殴られたんじゃ、そりゃ痛いよ」
「彼女を汚す奴には、時々そうやって制裁しててんて」
 花束を壁面に立て掛けると、葵はそっと石に刻まれた名前を指で撫でた。
「騎士道精神なのか、やきもち焼きなのか、よく分からないね」
「愛ゆえに、や」
 なぁ、と宙に向かって頷いてみせる葵と同じ方向へ、ジョーも首を曲げる。
「ちょっとやり過ぎだと思うよ。あんたの打撃、昔テレビのドキュメンタリーで見たけど、凄いじゃん」
「ええねん、そんなセクハラ男」
 見えない大リーガーを庇うように、葵は手を振り回した。
「37年間、毎週ここに花を持ってくるなんて出来る男、おらへんで」
「それはそうだけど」
 一歩足を踏み出し、ジョーも皇かな墓石に触れる。
「そんな優しい男から、どうしてマリリンは逃げたのかな」
「怖かったんとちゃうか?」
 誰に言うでもなく、葵は日差しに目を細めた。
「愛されすぎて、幸せすぎて、怖なった。自分が変わってしまうんが、恐ろしなったんやろ」
「愛をすれば、変わらなきゃならない?」
「勝手に変わるもんや」
 しみじみと頷き、手の中の包装紙を丸める。
「自分で思っとらんでも。だから、怖いねん」


 変化。
 その一言で、ジョーはとてつもなく悲しくなった。
 ぼんやりと墓を見つめる葵の横顔が、照らされて白く浮き上がっていた。今なら、何かが見える。目の前にあり、彼女の無為自然さは、覗く事を拒まないのでは、と思ってしまった。
 馬鹿げている、こんなこと。あつかましいにも程がある。身の程を知れ。鈍い痛みを押さえ込むため、ジョーは何度も自分に罵詈雑言を投げつけなければならなかった。汚い言葉を考えれば考えるほど、彼は希望を抱く自分と、理性的になろうとする自分の両方を、深く嫌悪していった。
 ぎこちなく笑いながら、手にしていた薔薇の花束から一本抜き取ったのは、全ての痛みにおける慰めのためだった。彼女にささげたいと思ってはいけないことを知っていたから、目を合わせるのさえ憚られた。
「赤い薔薇の花言葉は、愛情、貞潔、模範、情熱」
 葵の手に花を押し付ける。
「ディマジオのためにあるような言葉だよ。僕には似合わない」
「そうでもないんちゃうか?」
 深緑の葉を撫でながら、にっと白い歯を見せて笑った葵の顔が、更なる切なさをジョーにもたらした。
「赤薔薇の葉に込められた言葉は、『あなたの幸福を祈る』やで」
 気持ち、ありがたく受け取っとくわ。そんなことを言われてしまったジョーが出来たのは、更にそっぽを向くことだけだった。


 ― 『彼女の流儀に合わせれば (著:セールス・マン)』 了 ―