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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 二、大地の章

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上・血族・3、剣もまた二つ



(“兄上”……だって……?) 
 朦朧となりかけた意識を、セトの言葉がつなぎとめる。
 シエンは辺りに目を配らずにはいられなかった。自分たち以外には一切の気配を感じない。セトの兄など、いったいどこに居る……?
 それに――今セトの力を阻んだのは、キポルオの力。南の樹神、キポルオ・セベクのものに違いないのだ。
 目の前に立ち尽くしたセトは、戦意を喪失したと見え、だらんと伸びた腕の先に大剣をぶら下げたまま動かない。その、枯葉色の目は、シエンと彼の間にうねるように立ちはだかる樹皮の連なりを映す。それはやがて弾けるように砕け、細かな塵となって地に注いだ。
 セトはいまや空虚となったそれを映したままだった。
 その奥に、静かに立ち上がる影。地を伝い力を現したキポルオが、それを解いたのだ。
 ゆっくりと、セトが振り返る。ひどくぎこちなく、そうして、彼はキポルオを映した。
「兄上……」
 セトは言った。小さくかすれた声で。
(――な、に……)
 聞き違いではなかった。それを確信させるように、セトは敵であるはずのキポルオに一切の戦意を表さない。……それどころか、絶望に打ちひしがれたように、兄と呼んだその人を見つめている。
(何を言って……)
 シエンは眉を寄せる。キポルオは無言だった。
「……兄上、」もう一度、すがるようにセトが声する。「まさか忘れたわけじゃないだろ、この男は――」
「引け」
 キポルオの口から低く漏れた声に、セトがびくりと体を揺らす。
 震えるように一歩、砂を削って後退り、セトは首を振った。信じられないというように、何度も。
「兄上……あなたは……、騙されてるんだ――!!」
 そうしてシエンには目もくれず、砂をまとって姿を消し去った。
 シエンは茫然と、キポルオを映していた。視界が白く染まり、何もかもを呑み込んでゆく。

 “騙されてるんだ”

 セトの言葉が脳裏で繰り返される。
 彼のあんな様子を見たのは、初めてだった。
 キポルオはまるでいつもと変わらない。その無ともいえる表情からは、彼の思いを読み取ることはできない。なぜ、反論しないのか。なぜ、否定しないのか。……なぜ――?

 目を開く。いつの間にか、南の自室に戻っていた。
 前腕に受けた傷が熱をもつ。脳天を貫くその痛み。……ああ、夢ではなかった。
 部屋の隅にキポルオの姿をとらえる。部屋を去ろうとするその背を引きとめようと、シエンは咄嗟に声を上げた。
「本当なのか……?」腕に激痛が走る。顔を歪め、それでも問わずにはいられなかった。「セトはあなたの……弟、なのか」
 キポルオはゆっくりと振り返ると、
「……そうだ」
 やはり表情を変えることなく、答えた。
 信じられない――シエンは痛みさえ忘れ、その目を見開く。何かが全身に重たくのしかかり、じわじわと胸を圧迫した。
(北神だったと……いうのか)
 十年前の戦の日、母は南へ向かうようにと、そこには従兄がいるからと、そう言って自分と姉を地下へと逃がした。
 キポルオを従兄だと。そう言ったはずだ。
 あれは、間違いだったのか――? 母はこのことを、知っていたのか?
 ……分からない。いったいなぜ、こんなことが……。
「シエン」
ふいに、キポルオが声した。「『ゲブ=トゥムの剣』を持て」
「『ゲブ=トゥムの剣』……?」
 言葉を繰り返したが、もちろんシエンも知らないわけではなかった。
 地属の長が手にするという、最強の剣。切れぬものはないといわれるその剣は、偽りを砕き真実を現すとも伝えられる。
 だが実際には、先代の大地神が父の両腕を切り落としたものであり、また、今はセトがそれを手に暴挙を繰り返す。地属の長の、圧倒的な力を示す以外の、何物でもないのだ。
「それは、セトが――」
「剣は主が生むもの。神号が二つ与えられるならば、その剣もまた二つ」
(剣も……二つ?)
 はっとする。そうだ、精霊が見せた父のイメージの中で、先代の大地神が持っていた剣……父の腕を落としたあの剣は、セトの手にしているものとは違った。
 剣は、代々受け継がれているわけではないのか……?
(いったい、どうやって……)
 そのとき、部屋の戸が開かれサンダルを摺って駆け入る音が響いた。
 東の治癒女神が、包帯と水瓶を抱えて現れると、入れ違うようにしてキポルオが部屋を出た。
「意識があるのね、良かったわ」
 女神はほっと息をつくと、水瓶を床に置きすぐに治療に取り掛かった。
「『ゲブ=トゥムの剣』の傷を治療する方法は伝わっているけど……、どうしても時間がかかるわ」
 傷口を水で清め、清潔な布を当てながら、女神は言った。
「ふつうの傷とは違うんだから……」
 傷口に女神が手をあて力を注ぐと、骨の奥が軋むような痛みを感じ、シエンは思わず呻きをもらす。じわじわと熱が広がると、また赤い血が湧き出した。女神は素早く新しい布をとり血を染みこませる。白い布が赤く染まり、見る間に床に積まれた。
 女神の額に汗がにじむ。傷口は容易にはふさがらない。通常の倍以上に、術者と被術者の負担が大きいのだ。傷口は元の姿に戻ることを拒むように、組織の再生を困難にする。そのため、回復の力が注がれればその分、被術者の体力が削られる。シエンがいかに回復の術をもっていようと、使える状況ではなかった。
 どうにか裂かれた傷口が繋がるようになるまで、かなりの時間を要した。女神が一息ついたころ、シエンはふつりと意識を切り落としたように眠りについていた。

      *

(なんだよ、それ――)
 キレスは森に姿を現していた。
 キポルオに言われ、東へ治癒女神を呼びに行った彼は、シエンの部屋の前で捉えた言葉に愕然とした。
 セト……たしかシエンがよく話していた、北の大地神。そいつと、キポルオが、兄弟だなんて――。
 それを認めたキポルオの言葉に、嘘は感じられなかった。
 身体を何かが貫いたような感覚、そして無意識に、キレスはこの森に来ていた。
 目の前に、一本の樹。神殿を囲む森の西寄り、河に近いこの場所に、この種類の樹はただ一本きりであるらしかった。キレスの三倍ほどの高さの樹は、他の木よりずっと高いというわけではないが、あまり太くない幹をくいと曲げて伸びると、上から降り注ぐように細い枝を無数に垂れている。細長い葉は雨のように連なって流れ落ち、暗い灰色をした幹には、やはり幹にそってうねるように縦皺が刻まれている。
 根が広く張られているのか、他の木々が周りを避けるようにあるので、この樹はそれだけぽつんと立っていて、そのせいか、ここだけがまったく違う空間であるかのような、特異な印象を与えていた。
 キレスは苦笑を浮かべた。ほんの三年ほど前、成神したばかりのころ、彼はこの樹を偶然見つけた。彼にとっては、この森そのものよりもこの樹ひとつが、キポルオ自身であった。たったひとつ、支えるものも共存するものもなく立ち、目を伏せるように枝を垂れると、そこに影の空間を作り上げる。そんな、かの人を連想させるこの場所へ、無意識にとはいえやってきていた自分が可笑しかった。