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みやこたまち
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鸚鵡(宇祖田都子の話より)

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お久しぶりです。于祖田都子です。 

 十月にしては暖かすぎる秋晴の午後、南のベランダからは水平線。無限遠の距離で、海と天とを結んでいる白い三本の柱も、今日はくっきりと見えていました。世界には金木犀が香っています。私の両手が握り締めているベランダの錆びた手摺にも、そしてあの三本の柱のあちら側にも、きっと香っているに違いありません。この界隈には、一本の金木犀もありませんが、金木犀は世界のどこかに一本でもあれば、この季節の間ずっと、この世界をあの香で満たし続けるものなのでしょう。
 開け放した部屋に、午後の日差しが傾いています。私はようやく、赤黒く汚れたバケツを洗い、ゆすぎあげた十数枚の雑巾と洗濯物とを、ベランダの物干しに干し終えたところでした。

 お盆の頃、帰省中の友人と意気投合して、ちょっとした展示会をやろうということになり、それは画像データに文字を組み合わせたインタラクティブなものになりそうでした。私は素材になりそうな短文や、フォント。テクスチャーの材料を用意することになっていて、使っていない一室を、その作業の専用部屋にしつらえて、時間がある限りは部屋にこもって、いろいろ工夫をしていました。やがて手を動かすほどに興が乗って、毛くずやら、スプレー跡やら、鉋屑やら、レザーのきれっぱしやら、飛び散った木工ボンドやら、膠やら、何かの粉やらで、部屋は惨憺たる有様で、おまけに、居間や台所、トイレや玄関にまで、被害は拡大していました。昨日の夜から寝ないで片付けて、朝の可燃ゴミ収集に間に合わせようと、不気味な音が響く真っ暗な外階段を何往復もして、それから時ならぬ大掃除を始めて、ついでにワックスもかけて、窓も拭いて、洗濯機も回して、ようやく一息ついたところなのです。緩やかに翻る真っ白な洗濯物をみていると、うっとりと眠くなります。かすかにサイレンの音が響いています。階下の喧騒は、ここまでは上がってきません。上がってきたとしても、私の耳には、断じて届きません。始まったばかりの午後は、私にとっては新品の朝なのです。それは、太陽の昇る音までもが届きそうなほどの静寂さの中になくてはなりません。ほっとするひと時。疲労と達成感とが奇妙にバランスする、充実したひと時。
 干した雑巾にも金木犀が香ります。私はさすがに昼食を自分で作る気力も無く、展示をさせていただくカフェギャラリーへ出かけることにしました。そろそろ具体的に、レイアウトなどの打ち合わせをしなければならなかったのです。顔を洗ってさっぱりして、髪はシュシュで適当に束ねて、日焼け止めクリームは丁寧に塗って。半そでのワンピースに薄手のパーカーといった気軽なスタイルで、ほとんど何も入っていないショルダーバック一つで部屋を出ました。玄関を開けると金木犀の香りが吹き抜けていきました。エレベーターの前には人だかりができていたので、数匹の猫がてんでな方向を向いている踊り場をそっと抜けて、ぐるぐると階段を下りて陽射しの下へ出ました。マンション前のゆるい坂道を駆け上がってくる忙しげな人々とは逆に、ゆっくりと下っていく私の休日の途中、早くも額から汗が滲みます。帽子をかぶってくればよかった、と思いましたが、後戻りする気にはなりません。ハンカチで額を押さえ、街路樹の陰を縫いながら下ります。 パトカーや救急車がせわしげに通り過ぎます。世の中には、いまこの瞬間に、たいへんな決断をしなければならない人たちがいるんだな、などと思いを巡らしながら、坂が終わる寸前に、路地を北へ入ります。中央図書館へ向かう近道です。色づく前の銀杏並木から、はらはらと落ち葉が積もります。今度は上り坂です。道路の両側の敷地は高くてどの家にも階段を10段か15段登らなければならないほどです。道は枯葉の奔流です。ただ奔流とはいっても、落ち葉はそこを動かず、まるで枯山水の流れの如し。「また、龍安寺へ行きたいな」と思いながら、えいこらどっこいと、坂を上ります。頂上で顔を上げると、山の梢に天守閣の一部が見えています。青空に屋根の飾りが煌めいています。鯱ではないし、三日月ではないし。一体何の形を模した飾りだったか、私は忘れていました。マスターに聞いてみよう、と思いついて、頭から疑問をさっぱりとぬぐって、東の小道に入ります。村上春樹さんが、「マスクメロンの皺のような道」と書いた、ちょうどそんな雰囲気です。でも行き先は、それほど侘しい所ではありませんが。


 中央図書館のエレガントな敷地の足元に、ひっそりとたたずむ『カフェギャラリー 鸚鵡』その周辺だけ「雫」成分が多いなと、私はいつも思います。時間は午後2時。ランチタイムは終わってしまったかもと思いながら、潜水艦みたいな扉を開けました。
「ああ、いらっしゃい、于祖田さん」
 マスターは、私の父親と同じくらいの年だというのに、スラリとしていて、バーテン風のいでたちがとてもお似合いです。髪もきっちりとオールバックで、てかり具合も絵に描いたよう。おまけに、口ひげまで蓄えているので、まったく完璧なマスター具合です。中学生時代の同級生のお父さんで、私が中学生の頃には、ミニコミ誌などを発行する出版社にお勤めだったと思うのです。それが私が大学に入ったくらいには、この『鸚鵡』のマスターになっていました。マスターの息子さんと私とは、特別親しかったわけではありませんでした。帰省の折に、偶然『鸚鵡』を見つけて、そこでマスターが私を覚えていて、彼が事故で亡くなったことを始めてうかがったのでした。彼は私のことをよく話していたそうで、マスターは面識がない私を、とても近しい存在に感じていたそうです。私は、誰かが私をそんな風に見ていてくれたのだということが、とても不思議な気がしました。
 彼は、本の好きな、目立たない人でした。図書委員だった私と、読書家の彼とは、放課後の図書室のカウンター越しというのが、おそらくもっとも接近した場所ではなかったかと思います。
「あいつは、自分に自信がなくて、友達もできなかった。于祖田さんが過ごした中学校にあいつとも過ごしていたはずだが、現実にはずいぶんと離れたところにいたんだな、多分」
 マスターは、当時、そんなことをおっしゃっていました。
 普段のマスターは、明るくさばさばとしていて、ことさらこの店で儲ける必要もないんだという気楽さ満点なのですが、その該博な知識と広汎な人脈によって、地元の同人活動家達にとってなくてはならない場を、提供しているのです。

「まだ、ランチ大丈夫ですか?」とたずねると、マスターはにっこりとうなずきました。
ナポリタンと、メロンクリームソーダをオーダーすると、マスターは水とおしぼりをおいて厨房へ入っていきました。