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幻燈館殺人事件 中篇

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 男はほんの少し口元を歪め、手帳を懐へと戻した。
「彼が例の?」
「いえ、この者は付近を徘徊していた不審者であります。通報を受けて連行しました」
「身元は?」
「現在確認中です」
 これらのやり取りの間も、男は制服警官に視線を向けなかった。男の視線は、花明に向けられたままであった。
 そして花明もまた、男の視線を正面から受け止め続けていた。
「これは蜂須賀警視。ようやくのご到着ですか。道にでも迷われましたか?」
 いつの間にか表に出て来ていた山本が、花明の背後から男に声を掛けた。
 声を掛けられた男――蜂須賀は、人当たりの良い笑みを浮かべて山本を見やった。
 柔和な笑みに変わる直前の、片方の口角だけが攣り上がった笑みを、花明は見逃さなかった。
「これは手厳しい。僕だってね、山本さんの邪魔はしたくないのですよ。だからといって、現場に足を運ばないわけには行かないのでね」
 蜂須賀は花明の肩越しに山本への返事を発する。
「……ふん」
 山本は、より一層冷たい視線を蜂須賀に浴びせた後、事務的な笑顔を貼り付けて、花明の脇に回り込んだ。
「先生はもうお帰りになって結構ですよ。これが私たちの仕事なもんでね、悪く思わないでいただきたいものですな。そうそう、これはお返ししておきます」
 山本が差し出したのは、先ほど花明が渡した名刺だ。端のほうに、強く握った親指の跡がくっきりと残されている。
「引き上げだ。戻ってくるとは思わんが、念のため誰か残しておけ」
 山本は、制服警官に向かってそう吐き捨てると、不快を隠そうともせずに歩き去った。
 呆然と見送る花明に、蜂須賀が耳打ちするようにぼそぼそと囁く。
「彼は叩き上げの刑事でね。若者が大嫌いなんだ。特に、権威や肩書きを持っている若者が、ね」
「分かります」
 この花明の反応は、蜂須賀にとって予想外のものであった。
 若くして助教授という肩書きを持つに至った花明は、現在進行形で妬みと嫉みとに曝されている。それゆえ、権威や肩書きを持つ若者を忌み嫌う人間が存在することも、その嫌悪に確固たる根拠がないことも、身に染みて知っている。
 花明の返事はただの一言であったが、蜂須賀に息を呑ませるだけの重みがあったのだ。
「では、これで失礼します」
 花明は、機微が言葉に乗ってしまわぬよう、慎重に声を発した。
 そう、花明は焦っていた。大声を張り上げて走り出したいほどに。
 怜司とは似ても似つかぬ花明への対応から、怜司の顔を知らないことが分かる。そこから、名前と住所以外に怜司を怜司と特定する方法を持っていない、と推測するのは容易いことだ。
 怜司がここ紅梅荘に戻って来さえしなければ、とりあえずは警察に捕縛される心配はない。しかし、逃亡犯として隠れ住んでいた怜司に、花明の他に頼れる人物がいないこともまた明白であった。
 早く怜司に会わなければならない。花明はそう思っていた。
 花明がまず考えたことは、紅梅荘の付近に留って怜司が戻るのを待つことであったが、花明が不審者として通報されたことから分かるように、付近の防犯意識が高く、留まるのは得策ではないように思われたため、帝国大学の研究室に戻ることにした。
 だが花明には、研究室に戻る前にやっておくべきことがあった。
 花明の足は、紅梅荘の玄関口へと伸びた。
 紅梅荘の中に入った花明は、視界に誰もいないことを確認すると、大きく息を吸った。
「電話をお借りしたいのですが」
 玄関に一番近い扉から管理人が顔を出し、あからさまな不快を投げつける。
「またですか? 警察への協力は国民の義務ですから拒みはしませんけど、あんまり長く使わないでくださいよ」
 花明は、恭順の意を持たせた笑顔を貼り付けて会釈し、敵意も害意もないということを示す。派閥による諍いが絶えない大学内では、生き抜くためにこういった処世術を身に付けなければならない。
「帝国大学へ」
 受話器の向こうに控える交換手に番号を告げ、折り返しを待ち、再度受話器を拾い上げる。
「花明です。僕を訪ねてきた男性がいたら、構わないので僕の研究室にお通ししておいてください。戻るまでお待ちいただくようにと」
 最後に、くれぐれもお願いします、と念を押して受話器を置いた。

作品名:幻燈館殺人事件 中篇 作家名:村崎右近