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幻燈館殺人事件 中篇

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* 1 *



 平日の午前という時間のせいか、帝都を走る路面電車の乗客はまばらであった。
 花明は、車内を吹き抜ける春の香りにつられて窓の外に視線を送ったが、そこに春を見つけることはできなかった。
「香りはすれども姿は見えず、ですね」
 通りを歩く男性は、皆が背広で身を包んでいる。道行姿で歩く女性も随分と珍しくなった。着物で出歩くのは、男女共に年配者ばかりだ。
 しかし、この花明栄助は例外である。和服に革靴、そして一部の愛好者を除いて使用されなくなったインバネスを羽織っている。少なくとも帝都には、二十代半ばという年齢でこんな格好をしている者はいない。
 路面電車を降りた花明は、ふぅ、と一息ついてから、目的の場所へと歩み出した。
 陽が頭上にあるうちは暖かいが、陽が傾き始めると途端に風の冷たさが身に染みる。陽が昇りきっていない今は、ふとした拍子に肌寒さを覚える。春はまだ遠いように思われた。
 花明は百貨店に足を踏み入れた。
 店内を歩く男の姿は如何にも珍しく、それだけでも好奇の視線を集める。
 更に、高級感に満たされた店内では、古いインバネスを纏った花明の姿は酷く場違いな存在に映る。そのことは花明自身も充分に認識しているが、だからといって引き返すことは許されないことも、それ以上に認識している。
 花明がここを訪れるのは初めてのことではなく、訪れた回数は一度や二度ではない。好奇の視線に晒されても冷静でいられる程度には通い慣れている。少なくとも本人だけは、慣れているつもりだ。
「あら? 先生?」
 花明に声を掛けたのは、美星堂の店員だった。髪はダッチボブで、淡いブルーのワンピースに身を包み、赤い口紅を点したモガである。
 見知った顔を見つけた花明に、安堵の笑みが浮かぶ。
「丁度良かった。常盤さん、貴女のところに用があって来たのです」
「まぁ! 私に会いに来てくださったの?」
「え? いえ、常盤さん。僕たちはそういう間柄ではありませんし」
「先生ったら。恥ずかしがらずに“しづ”と呼んでくださって構いませんのに」
 冷静に諭す花明に対し、美星堂の店員・常盤志津は大仰に拗ねてみせた。
「からかうのは止してください」
「もう……つれないですわ」
 花明は端正な顔立ちである。流行の服に身を包みさえすれば、道行く婦人たちの目を独り占めするかもしれないほどだ。そこらの男たちとは比ぶべくもない。あとは、片手で余る程度の女性を愉しませる談話と、女性の本能を刺激するフェロモン――危険な香りを身に着ければ、花明が異性に困ることはないだろう。
 ただし、花明にはその気はないし、その自覚もない。
「でも先生、いつもの品をお求めでしたら、一週間早いのではありませんか?」
「新作が出たでしょう? それを買ってくるように仰せつかりまして」
「教授のお孫さんに、ですか? 羨ましいですわ。毎月の贈り物だけではなく、新作が出る度にこうして先生に買ってもらえるなんて」
「僕は言われた品を買っているだけですよ。お金を出しているのは教授ですから、贈り物ではなくてお遣いなんです。それに、僕には女性が贈られて喜ぶ品が分かりませんから」
「まぁ、先生。贈り物って、そういうことではないんですよ? 感謝の気持ちとか、喜んでもらいたいと思う気持ちとか。形のない贈り物が見えれば、女は幸せを感じることができるんです」
「感謝、ですか。感謝といえば、常盤さんにも何か贈り物を、とは思っているんですが……まさか美星堂の品を贈るわけにもいきませんしね」
 花明は、ははは、と恐縮するかのように笑った。
「そうですわ、先生」
 常盤は、ぱん、と柏手を一つ打った。
「女性の方からの手紙をお預かりしております」
「手紙、ですか?」
「先生に渡して欲しいと仰られまして。先生をご存知の様子でしたから、大学を訪ねてはいかがでしょうと申し上げて、一度はお断りしたのですが、半ば強引に置いていかれてしまって」
 困り事を口にしながら、常盤は僅かに表情を歪ませる。それは、男を狂わせるだけの充分な妖艶さを持っていた。
 大抵の男であれば、これでおちる。
「常盤さんのお店に? いつのことですか?」
 しかし、そんな常盤の誘惑も、目の前の朴念仁には通用しない。
 花明に対する連敗記録は更新中だ。
 けれど、常盤は落胆を表に出しはしない。決して。
 誘惑は受け付けないくせに、気落ちには敏感であることを知っている。目の前の朴念仁がそういう男なのだと気付いてから、常盤は落胆を表に出さなくなった。
 弱味に付け入り利用することを、彼女自身が許さない。
 女の意地だ。
「昨日です。なんでも、先生には大変お世話になったのだとか。それで、自分が大学を訪ねると先生に迷惑が掛かってしまう、とも。あぁでも、これは三週間前に聞いていたことですわ」
「三週間前というと、僕が前回買いに来た頃ですね」
「えぇ、先生がお見えになったその日ですわ。先生がお帰りになった直後に声を掛けられまして。今の方は花明さまですよね、と」
「その方は、僕に世話になったと言っていたんですよね? 卒業生でしょうか……」
「どうでしょうか。先生と同じくらいの年齢に見えましたわ。少なくとも、学生には見えませんでしたよ」
「僕と同じくらい、ですか? だとすると、全く心当りがありません」
「あんなお綺麗な方を袖にするなんて。先生も隅に置けませんわね」
 常盤は大仰に拗ねてみせた。
「本当に身に覚えがないんです。とにかく、その手紙を見せていただけますか?」
「店に保管してありますわ」
「では、行きましょうか」
「私、これから少し用事がありますもので、店で待っていてくださいな。すぐに終わらせますから」
「分かりました」
 常盤を見送った花明は、常盤に会った場所で立ち止まったまま話し込んでいたことに気付き、急に気恥ずかしさを覚え、反射的に周囲を見回した。
 月に一度とはいえ、花明は何度もこの百貨店を訪れている。初めの頃は、店内を歩くこともできなかった。何しろ、客も店員も女性ばかりである。そこに男が一人で紛れ込めば、どんな朴念仁であっても場違いであることに気付く。しかも、その場所は流行の最先端。花明自身には変えるつもりなど更々ないが、羽織るインバネスが時代遅れであることは重々自覚している。
 花明が向かう美星堂は、時代遅れの男が行く場所では決してない。好奇で済めば御の字であり、変質と取られても仕方がない。
 それほどの場所であり、それほどの場違いっぷりなのだ。
 花明は、花明自身が好奇の目で見られてしまうことよりも、花明が訪れることで店側に迷惑を掛けてしまうことを恐れている。そのため、午後よりも午前の方が客足が少ないことを知ってからは、この月に一度の“教授のお遣い”を午前のうちに済ませてしまうことにしていた。
 視界に入ったのが女性の店員ばかりだったことに、つまりは客の姿が見えなかったことに、花明は安堵の笑みを浮かべた。
 心持ち早足で美星堂へと向かうその道中では、一度も訪れたことのない売り場の店員も、いらっしゃいませ、と花明に向かって頭を下げる。
作品名:幻燈館殺人事件 中篇 作家名:村崎右近