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幻燈館殺人事件 中篇

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 その分かろうはずのないものを、花明は天秤に掛けた。愛も情も尽き果てていたのだと思い込んだまま生きていく未来と、未来をともに生きる存在を失った現実とを。
「俺と、桜子の子供……か」
 花明は、怜司の目の前にそっと桜子の手紙を置いた。
「蜂須賀さん。実は、僕たちは食事がまだでして。これから買いに行こうと思うんですが、その、一人で運ぶのは大変なので」
「分かった。手伝おう」
 蜂須賀はすぐさま立ち上がり、口を挟む間を与えることなく、研究室の扉を開けた。
 花明は、その反応の早さに驚きながらも立ち上がり、外套掛けからインバネスを引っ手繰ると、研究室を後にした。
 廊下にまで漏れ出てくる怜司の嗚咽を背に、二人は無言のままその場を離れた。

 *

 一階の事務室は、相変わらずの無人であった。
「無用心だな」
 蜂須賀は小窓から事務室内を覗き込む。
 薄暗い室内は、誰の目から見ても人の気配を感じられない。
「ここには貴重品の類はありませんから」
 そう言う花明も困り顔だ。
「研究の成果が盗まれたらどうする?」
「この学部棟は、民俗学の専用棟なんです。流行のハイカラやモダンとは掛け離れた学問ですから、注目されてもいないし、民俗学という名前もあまり知られていません。狭い学問ですからね、盗まれた論文が発表されれば、すぐに犯人が分かります。でも、澤元教授なら喜ぶかもしれませんね。嬉々として高く評価すると思います」
「研究の成果を盗まれたのにか?」
 蜂須賀は身を屈めたまま、顔だけを花明に向ける。
「高い評価を得て注目が集まれば、期待されるでしょう?」
 研究を盗んだとて、そのものに対する理解が浅ければ、地位を守ることはできない。保身のためには、盗んだ研究に対する理解を深めるか、新たな成果を出すかのどちらかを選択しなければならない。
 どちらに転んでも、民俗学全体には好転材料となる。
「なるほど」
「実のところ、澤元教授が発表するから価値が生まれるんです。例えば僕が同じ論文を発表したとしても、誰も見向きもしません」
「その若さで助教授だ。注目はされているだろう」
 蜂須賀は身を起こし、小窓の脇に背中を預けた。蜂須賀が抱く花明に対する興味心が、この場での会話を続けるために必要な行動を取らせている。
「助教授といっても助手ですよ。雑用ばかりやっています」
 花明の微笑みは、奥にある感情の正体を完璧に隠した。しかし、感情の存在までは隠しきれていない。
「専用棟が建つほどだ。民俗学そのものへの期待はあるんじゃないか?」
「観察ならされていますよ。隙あらば寝首を掻いてやろうとね」
「それは妬まれているということか?」
「民俗学が価値を理解されにくい分野だということです」
 蜂須賀は口をへの字に結び、ふむ、と唸った。
「金の話か」
「そうです」
「だとしたら、専用棟を建てたのは如何にも拙いな」
「なぜ専用棟ができたのか、僕も不思議なんです」
 花明は嘘を吐いた。
 この学部棟が九条家の寄付によって建設されたことを、花明は知っている。九条家から寄付が行われた理由も含めて、だ。
 だから花明には、自身の助教授就任も九条家の寄付によって成立したのではないか、という疑念がある。澤元に訊ねたとて、そうではない、という答えが返るのは分かっているし、それが事実だということも理解できる。しかし――
 この棟は敗北の証だった。金と権力とに屈服した証として建てられたものだった。そこに押し込められた澤元の気持ちを思えば、自分の自尊心など取るに足らぬものだ。花明はそう思う。しかし――
 待遇にも境遇にも不満はない。なのに――
 花明の脳裏には、逆接の接続詞が常駐している。
「一つ、教えてくれ。なぜ彼に犯人の人相を訊かないのかを」
「やっぱり気付いていましたか」
 花明は気まずそうに後ろ頭を掻いた。
「わざと訊かないようにしていたのは分かっていた。だから何も言わなかったが……」
「怜司さんは、顔から人物を判別できないんです」
「すまんが、言っている意味が分からない」
 蜂須賀は眉を顰めたが、それは当然とも言える反応であり、蜂須賀がそういった反応を見せることは、花明も予測済みであった。
「そのままの意味ですよ。顔の造形を見ても誰なのかを認識・判別できないんです。相貌失認という実在する病気ですが、俄かには信じられないのも無理からぬ話です。簡単には信じてもらえないことは、怜司さん本人が誰よりも知っているはずです。それは、怜司さんが警察を頼れない理由でもあります」
 一瞬の沈黙を挟んで、蜂須賀は壁から背を浮かせた。
 話の終わりを告げる合図であるとともに、蜂須賀が怜司の置かれている状況に対して理解を示した証左でもある。
「それで、売店はどこにあるんだ?」
「そんなに遠くではないですよ」
「彼を一人で残すわけにはいかんだろう。不意の来客があったらどうする」
「まずないとは思いますが、確かにそうですね」
「だろう? 先生がここに残る、俺が食糧を買いに行く。他に選択肢はない」
 花明は、この男なら信用しても良いのかもしれないと考えた。
「明かりが消えていれば、誰もいないと思って引き返すのではないでしょうか?」
 花明の言うように、玄関口から見える暗い廊下には、誰かが居そうな気配は一切感じられない。
「それでいいのか?」
「ほんの数分ですから」
「じゃ、とっとと行っちまおう」
「そうですね」
 花明が微笑んで見せると、蜂須賀は口の端を攣り上げて応えた。

作品名:幻燈館殺人事件 中篇 作家名:村崎右近