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カクテルの紡ぐ恋歌(うた)Ⅰ

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 バーテンダーの恰好をした男は、無言のまま、美紗をじろじろと見た。雑居ビルの屋上で厚かましく煙草を吸っているように見えたシルエットの持ち主が、背広ネクタイの中年男ではなく小柄な女だったことに、いささか驚いているようだった。
 彼の無遠慮な視線が体に刺さる。それから逃れたいのに、美紗の足はすくんだように動かなかった。せめて下を向いて少しでも顔を隠そうとしたが、遅かった。地味なグレーのスーツに身を包む相手を凝視していたバーテンダーは、突然人懐っこい声を発した。
「あれ? 前にうちの店によく来てました? ええっと……、日垣さんと一緒に」
 美紗はびくんと体を揺らして、思わず相手を見返した。若いながらも接客のプロである彼は、月明かりで逆光になっていても、客の顔を判別できるらしい。バーテンダーは、丸い目を嬉しげに輝かせながら、少し身をかがめて美紗の顔を覗き込んだ。そして、
「ああ、やっぱり。うちの常連さんとは気付かず、失礼しました」
 と、手慣れたしぐさで頭を下げ、爽やかな笑顔を見せた。
 しかし、美紗のほうは、相手の顔に全く見覚えがなかった。確かに、階下にあるバーには以前よく通っていたが、店で働く者たちに注意を払う余裕はなかった。常に目に映っていたのは、一緒にいたあの人だけだったから……。
 美紗は「いえ、いいんです」と小さくかすれた声で応え、気まずそうに自分の足元に目をやった。冷たいコンクリートの上にストッキングだけを履いた足。脇には小さな黒いパンプスが揃えて置かれ、その上にIC定期券が乗せてあった。
「半年ぶりくらいですか? でも、今日はずいぶん早い時間にいらしたんですね」
 バーテンダーは、慌てて靴を履く美紗に気を留めることもなく、
「もうすぐ店を開けますから、下で待っていらしてください」
 と言いながら、転落防止用の安全柵の近くに捨てられた煙草の吸殻を、手早く塵取りの中に収めていった。

 夜空が闇の色を濃くしていく中、安全柵の向こう側に広がる街灯りだけが、ますます輝きを増して、美紗の心を苛んだ。あの光を美しいと思いながらあの人と一緒に眺めたのが、もう何年も、何十年も昔のことのように感じられる。美紗は耐えきれずに両手で顔を覆った。はるか下からぼんやりと聞こえてくる都会の喧騒が、かろうじて嗚咽の声を掻き消してくれた。
 先ほどのバーテンダーが勤めているのであろうそのバーは、あの人の行きつけの店だった。