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公務員に成れなかったコックローチ

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「そんなことをして、捕まらないのですか。」と若者はやはり尋ねた。
「捕まらないように細心の注意を払ってやるのだ。捕まってもどんなことがあっても、私や会社の名は出すな。給与は五倍やる。捕まったらこのように答えるのだ。自分はゴキブリが好きなので、花壇に花々を咲かせ町中を花で一杯に飾りたい人々のように、自分はゴキブリがすきで町中をゴキブリで一杯にしたいだけだ。蛍を繁殖させ撒いている奴もいるではないか。何が悪い。ごきぶりを見て悲鳴を上げながら逃げ惑う主婦のテレビコマーシャルがあるだろう。あれは大嘘だ。本当は、ごきぶりが人間を見て、ギャーと悲鳴を上げて逃げ惑っているのだ。箒でペチャリとたたきつぶそうと追いかけているのはいつも人間の方ではないか。ニンゲンのほうがはるかに悪辣だ。自分はゴキブリ方がずっと好きなのだ。」と社長は言った。
 若者はとんでもないと思ったが、その仕事を引き受けることにした。引き受けるしかないと思った。お金がいるんだ。仕事がいるんだ。心の奥底で世の中など、どうにでもなれと思っていた。就職できるなら。お金が貰えるなら。母親も家族もきっと喜ぶだろう。就職先も決まりみんな安心するだろう。
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用意された海岸近くの一軒家に行くとそこには地下室があった。床の上に持ち上げるマンホールのふたのような入口が作られていた。人ひとり通れる梯子のような木の階段を降りていくと天井は低く、すでに豆電球の付いている薄暗い部屋があった。床には数十匹の黒く動くものがいた。あいつらだ、いるぞ、と若者は思った。階段の横にあるスイッチに手を伸ばすとその腕に舞い降りてくるものがあった。思わずそれを振り払い、スイッチを入れた。その時、真っ黒な天井が一斉に動いた。まるで蝙蝠の舞う洞窟のように、部屋中を黒いゴキブリが群れ飛んだ。羽音がパタパタと凄まじい。羽ばたきで部屋の空気がふるえた。湿度も室温もむっとするほどたかく 牛糞の匂いがした。床には排泄物が黒く湿って溜まっていた。きっと社長はすでにゴキブリを住宅地に、人の住む所にまき散らす仕事をしているに違いないと若者は思った
次の日から若者はその家に住みついた。そこにはすでに生活に必要なものはだいたい備えてあった。鍋釜から寝具、色々な工具、お米もあった。社長の指示どおりご飯を炊き、幾つもの盆のうえに平たくのばしてゴキブリにあたえた。盆一面に白い米粒がみえなくなるほど、ゴキブリは真っ黒に群がった。下腹部が呼吸するようにゆっくり膨らんだりしぼんだりしていた。くるくると長い触覚を一斉に鞭のように振りまわしている。喜びに羽をパタパタさせながらむしゃぶりついて食らっていた。耳を澄ますとジィージィーと歯ぎしりするような音が聞こえた。食べ物に群がっているゴキブリの歓喜の声だと若者は思った。よく見ると羽根やふっくらとした腹部は艶やかにこげ茶色に輝いていた。人々を驚愕させ、正視できないほどのおぞましい美しさがあった。生きている物の持つ艶、神々しい生き物だと若者は感動さえした。
若者は地下室から出て上の部屋で眠ることにした。押し入れから薄汚れた布団を引きずり出し、六畳の畳のうえに敷いた。ズボンをはいたまま布団にもぐり布団の中でズボンもパンツもシャツも脱いだ。脱いだものを布団から蹴りだして、素っ裸になった。ここに来る前にコンビニで買ってきた雑誌を開いて、性器を握り、いつものように眠った。浅い眠りだった。若者はかさかさという音で目覚めた。夜明け前の薄暗い中、目を凝らすと数匹のゴキブリが、ごみ入れの中の雑誌をちぎって丸めた紙を食べていた。それは前夜、手淫の精液を拭い取ったエロ雑誌の切れ端であった。若者はぎょっとした。自分の精液にゴキブリが群がっていた。気持ちが悪いと思った。しかし、そういう事なのだと納得もした。精液を食われ、その中の一つ一つの精子からどんどん赤子のゴキブリが生まれてくるような気さえするのだ。食べているのではなく交尾しているのだと言う気さえしてくるのだ。なんとなく宿命のつながりを感じるのだった。どうせ自分はゴキブリなんだ。小学時代コックローチというあだ名で馬鹿にされ、ずっといじめられた。中学校ではそのように呼ばれることはないだろうとあわい期待を抱いたが、あだ名の由来を知っている同級生がまたもや言いふらしてコックローチから呼び名がゴキブリに変わっただけだった。女生徒から薄汚いゴミ箱をのぞきこんでいる奴と噂され、彼が近づくと嬉しそうにキャーと女たちは「ゴキブリがいる。ゴキブリがいる」と逃げた。逃げ惑う小さな心しか持たないゴキブリ男は踏みつぶされないように、睨みつけることで精一杯、彼女達に反抗し、自己を守ろうとした。だが睨みつけるとそれがまた「気持ちわる―い、ゴキブリが睨んでいる」と言われ、一層彼女たちを喜ばせた。本当は自分をいじめる奴らの靴を靴箱から盗み出し、ゴミ箱に捨ててやればいいのだとゴキブリ男は知っていた。知っているだけでそれが出来ない人間だからこそいじめられるのだ。せいぜいできることは親や何もしてくれない先生に告げ口する事ぐらいだった。若者は昔を思い出すだけで身震いするほど腹が立ち屈辱感にさいなまれ、我慢ならなかった。今こそ仕返しのできる強い人間に成るのだ。ゴキブリを撒くことで少しは世間のいじめた奴らに復讐できるのだ。たとえ仲間のゴキブリが殺虫剤で殺されても、ペチャリとスリッパで黄色い内臓を床になすり付けられても仕方がないと思った。これはいじめた奴等への仕返しなのだ。復讐なのだ。ゴキブリを撒く仕事はやりがいのある、意味のある仕事だと気を奮い立たせ、きつく胸の前でこぶしを握った。
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虫かごにごはんを入れておくとゴキブリが集まった。真っ黒になった虫かごを幾つも持って、毎夜、軽自動車で真夜中の二時に出かけた。車の窓を開き、片手でハンドルを握り、運転し、片手で虫かごの戸を開いて振りながらばら撒いた。お前たちは自由だ、自由だと大声で叫びそうになり、若者はばら撒いた。「それ行け。それ行け」虫たちは月の光に黒光りしながら飛びたち、街灯のともる住宅街へアスファルトの上を素早く黒い群れに成って、ニンゲンの住む所へ走って行った。犬や猫の糞を食らい、ニンゲンの食べ残しを漁り、寝静まったニンゲンの枕もと、暗闇をゴキブリは駆け抜けるだろう。そう思うと若者はぞくぞくし、嬉しくてしかたなかった。
しかし、若者はやはりこんなことをして本当に良いのかと毎日心配もするのだった。警察に捕まるのではないかとひどく怖かった。警官に出会っただけで眠れない日が続いていた。そのことを社長に告げると
「もう気付いていると思うが、俺はこの仕事を以前からひとりでやっていたのだ。同じように怖くなった時これを吸っている。これでもやれ」と社長は言った。そして脱法ハーブの入った小さな袋を内ポケットから取り出して渡してくれた。