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LISBOA 記憶の欠片 後編(11月8日完結)

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その晩、卯藤は一人で自分の部屋の小さなキッチンに立っていた。いつもは仕事が終わるのが遅く、まともに夕食も摂れないこともある。時間に余裕がある時にはできるだけ食事を作るようにしているが、買い物は定休日にしか行けないので冷蔵庫に残っているものから何か考えなければならない。卯藤はまず冷蔵庫から葉の縮れたキャベツを取り出して外側の葉を何枚か剥がし、ざく切りにしてホーローの鍋に入れ、水と塩を少し入れて火にかけた。縮れたちりめん状の葉キャベツはポルトガルではスープや煮込みに日常的に使われる野菜である。その後はプラスチック容器に入れてあったトマトの缶詰の残りと、ニンニクを一かけ加えた。更にジャガイモの皮を手早く向いて三、四等分ほどに切ったもの、一羽まるごと買って冷蔵庫に入れていたローストチキンの残りを加え、白ワインを振りかけてジャガイモに火が通るまで煮込む。最後にハーブソルトで味付けして火を止めて、オリーブオイルを回しかけた。この一品料理と羊のチーズをふたかけ、グラス一杯の赤ワインがこの晩の夕食になった。
 出来上がった食事を一人で食べる。ぼんやりと考え事をしながらチーズを齧ってワインを口に含む。そして料理に手をつける頃にはすっかり冷めてしまっている…もう何年もずっと、そうだった。たまに知人に誘われて外で食事することもあったが、仕事に追われているからそんな機会は滅多にない。
 だが、そういえば何週間か前にも同じようなものを作った。あの時は…ベッドから起き上がった片岡が腹を空かせているようだったから、余り物で一品作ってやったのだった。
 出された食事を罰が悪そうに、片岡は殆ど無言で食べていた。だが食べ終えるとぽつりと呟いた。
『不思議だな…日本の料理よりも、こういう飯の方が懐かしく感じる』
 日本人とはいえ、幼い頃に母をなくし父親について外国でばかり暮らしていた彼には、日本の家庭料理の記憶がないのだろう。何だかほっとした、と一言礼を言って、片岡は卯藤の部屋を出て行った。
 卯藤もまた、施設の画一的な食事で育ったためか、懐かしく感じる日本の料理と言われても思い浮かばないのだ。それ故に十年以上日本の食べ物を口にしていなくても、寂しく感じたことはなかった。一方で懐かしく思い出すのは、十二年前…片岡とリスボンで暮らしはじめた頃に、スーパーで買った食材を見よう見まねで料理して二人で食べた記憶だった。ポルトガル人が好んで食べるという干鱈を買ってみたが水で戻そうとして失敗したことを特に鮮明に覚えている。孤軍奮闘してほぐした鱈をまとめてコロッケのような揚げ物にしたが、身が堅く塩辛くてひどい仕上がりになった。だが片岡は『そう悪くもないさ』と言って残さず食べてくれた。何だかそれが嬉しくて堪らず、思わず涙ぐんでしまったのだが、彼は料理の出来を気にして泣いたのだと勘違いして必死に慰めてくれた。
 十二年経った今でも、片岡のそんなところは変わっていない。いっそ、 もっと嫌な男になってくれていたら良かったのに。彼が卯藤に示す態度も言葉も…こんな状況になっている手前、表に出さないようにしているようだが、時折あの頃のままの片岡が垣間見える。そんな時は…いや、そうでなくとも常に願ってしまうのだ。
 どんな報われない関係でも構わない。週一度の僅かな時間でもいい。彼がここに来てくれたら。
 だが、この二週間ほど、片岡は卯藤の部屋に来ていない。
 毎週水曜日は店を早く閉めていて、そのことを知った彼は閉店の時間になると必ず姿を現した。それから店の二階にある卯藤の部屋へ行って、かりそめの交歓に浸るのだった。
 もとよりこんな関係に確かなものなどあるはずはなかった。過去への郷愁か、或いはただの興味本位かは知らないが、片岡が卯藤を求めてくるのはきっと気まぐれにすぎず、それはいつ終わっても不思議ではない。  
 ところが、いざその時が来たとなったら…この喪失感は何なのだろう?はじめは彼が強引に自分を抱いたことに少なからず怒りを覚えた。結婚を決めた相手がいながら、今更遊びで手を出されたのかと思うと屈辱だった。それなのに…いつの間にか片岡が訪れる日を待ち侘びるようになってしまった。
 片岡の腕が自分を包み込んでくれるのはほんの一時だけなのに、その一時に縋らねばならないとは何と惨めなのだろう。だけど…彼でなければだめなのだと思い知ったのだ。
 卯藤に興味を示す男は少なくなかったから、片岡と再会するまでに何人かと付き合ったが決して満たされなかった。結婚して家庭を持てればあるいは…と考えるようになって、たまたま知り合った日本人の女性と婚約間近まで親密になったが、その反面で生き方に対する価値観の隔たりが埋められなくなった。日本へ戻って家庭を持つ事に執着する彼女に対して、卯藤は当時やっと準備をはじめたリスボン市内でのカフェ経営をどうしても諦められなかった。彼女の言う「理想の人生」にも、実の両親に見捨てられて血のつながりだとか家族の絆とかいうものに懐疑的だった彼には、さほど共感できなかったのだ。結局結婚に至る事なく、彼女は一人日本に戻って行った。
「家族…か…」
 卯藤は呻くように呟いた。片岡もいずれ結婚して家族ができれば、そこに理想の人生を見いだしていくのだろう。だが、卯藤ができるなら戻りたいと思うのは十二年前の片岡との暮らしだった。
 
 あの時、孤独だった自分に迷わず手を差しのべ、生きる道筋を示してくれたのは片岡一人だけだった。彼以外の誰に絆を感じることが出来るだろう?だけど、片岡にとってはそうじゃない。
 …やはり、きっぱり諦めなくてはだめだ。このまま彼が俺の部屋に来ることがなければ、それで終わる。今度こそ。

 卯藤は、空になった白地に青い草花模様の皿の上にスプーンを置いた。かちり、と、陶器に金属が当たる音が部屋に響き渡る。
 小さなキッチン、小さなテーブル。バスタブもないシャワー。寝室にはベッドと小さな本棚を置くのが精一杯の部屋なのに、一人でいると何と虚ろな空間だろう?
 そして、その虚ろの中で卯藤は目を閉じ心の中で小さな作業を試みる。
 
 アルファマの石畳の下に埋めては掘り起こし、また埋める。
 この街での記憶の欠片を…


 一月下旬、片岡とエリはバイロ・アルトのアパートへ移り住んだ。三部屋がリビングとダイニングルームを囲むような間取りで、部屋の窓から見える路地の風景が良かった。エリが特にこの部屋を気に入った理由は、リスボンの物件にしては珍しく浴槽が完備された広いバスルームがあったからだ。しかしエリは引っ越して早々に、日本へ戻ってこちらへ移動させる荷物の発送をしたいと言い出した。日本では2月の下旬頃から杉の花粉の飛散が始まるので、重い花粉症の彼女はその前に用を済ませておきたいらしい。どうにか来週末の飛行機を予約したとのことだった。
「じゃあ、この週末なら少し時間が取れるか?」
「ぜんぜん、大丈夫。何かあったっけ?」
 ここ最近、片岡は水曜日の晩も午後七時過ぎにはアパートに帰ってくる。エリはすっかり安心して上機嫌だった。
「店舗デザイナーのジョアンの話をしただろ?彼にアルカンタラのギャラリーでイベントをするから来ないかって誘われた」