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フィアンセになりたい

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その日は、朝から冷たく雨が降り注いでいた。
雨粒は大きくなく、フツフツと隣の家のトタン屋根を叩き、雨どいを流れ、私の部屋の窓の手前にある水たまりに注ぎ込まれる。
そのパタパタッという柔らかくとろけた音に、いつもよりぐんと早く目が覚めた私は、カーデガンを羽織って部屋を出た。
喉に渇きを覚え、まだ肌寒い初夏の空気に肩を震わせながら階段を降り、リビングにたどり着くと、そこにはどうしてか明かりがついていた。
ゆっくりとドアノブに手をかけ、ドアを開ける。
手は、小刻みに震え、まさかという思いで胸が張り裂けそうになる。

「ごめんなさい、起こしちゃったみたいね」

やはりそうだった。
リビングで出会った彼女は、まるでどこか旅行へ出かけようとしているかのように、スーツケースにカギをかけているところだった。
化粧気は少なく、ピアスもイヤリングもネックレスもない、指輪だってしてはない。
すでに厚手のコートを着込み、ハンドバッグもソファの上に用意されており、それもしっかりとチャックまで閉められていた。
ああ、出て行ってしまうのだ。
彼女にわからないように、私はパジャマの上から自分の太ももをつねる。
彼女の私への眼差しと口調は、あまりにもいつも通りすぎて、これはもしかしたら夢なのではないだろうか。
ますます、太ももをつねる指先に力が入り、爪が食い込み、奥歯を噛み締める。

「どうしたの?」

やっぱり、痛い。
そう感じて、口元をゆがませていたことに気がついたのか、彼女が心配そうに声をかけてくれる。
私は、首を横に振るだけで、立ち尽くしていた。
太ももはずきんと痛み、しびれている。

「なんでも、ないです」

喉の奥から絞り出した声には、涙が混じる。
それが太ももの痛みからではないということを、彼女も理解してくれたのだろうか。
私の体を抱きしめることなどもなく、素早くスーツケースを起こして、時計を眺める。
午前5時。
窓からのぞく天気の方は、雨脚は強くなってきているが、雨粒は小さく、霧のように降り注ぐ。
辺りはうす曇り真っ白で、そして、それに夜気が混ざって淡い紺色に映る。

彼女が出て行ってしまう。
私の罪を咎めることもなく。
私にはそれを止めることは、出来ない。

「住む場所とか、どうするんですか」

ぞっと背筋が凍りつくなんていうような、そんな恋愛小説の主人公のような絶望感は訪れない。
ただただ、彼女を失うという喪失感は、時間をかけてじわじわと私を苦しめていくのだろう。
涙は流れても、泣きながら彼女に抱きついたり、すがりついたり、いっそのこと刃物を手にして命を断とうというような情熱的な衝動には駆られなかった。
彼女はハンドバッグに手を引っ掛けながら、笑う。

「しばらくは寮にお世話になるつもりなの。アパート探しはそれからかしら」

そう言い終わってから、少しの沈黙のあと、長居し過ぎたのよね、と彼女は小さく呟く。
私はその言葉に自らの言葉を失い、彼女の顔をまっすぐ見ることすらはばかられた。
そして、彼女は気持ちをカラッと切り替えたような明るい声をあげながら、私の方に振り向く。

「引っ越し先が決まったら、電話入れるわ」

「もう、会えないんですか。会ってくれないんですか」

「会わない方がいいわ」

彼女はそう告げて、スーツケースを片手に玄関へと向かった。
私が玄関へ駆け込もうとすると、その前に、見送りはいいから、と声が届く。
立ち止まって、リビングから、もう見えなくなった彼女を見送る。

「身体に気を付けてね?」

ガコンというスーツケースがコンクリートに当たる音、ガラガラという滑車の音。
そして、カギが開き、玄関の扉が開き、閉まり。
また、カギがかかる音がしたかと思うと、カタンという金属に何かがぶつかるような音が響いた。
足音と滑車の音が遠ざかる。
静けさがまた訪れる。
もう、彼女はエレベーターに乗ってしまっただろう。
私はよろよろと玄関に向かい、彼女の靴やサンダル、ブーツがなくなっていることを確認した。
そして、新聞受けを開けると、そこには彼女が持っていたこの部屋の合鍵が転がり出てきた。
これだけは、反則だと思う。
私は、自分と色違いのキーホルダーがついた合鍵を握りしめながら、ようやく涙を流し、声をあげて泣くことができた。





入ってみてからわかったことなのだけど。
私のボスは、『そういう関係者』の弁護を多く受け持つことで有名だったらしい。
確かにボスは、恰幅が良く金遣いも大胆で、アルコールとチョコレートを愛し、とんでもなく高そうなスーツに身を包んでいても決してそれが浮くことがない人間だから、納得がいく。
そして私は今日、『そういう関係者』からの紹介を受けたボスからの『命令』を受けて、予定通りに来ないとある人間を待っていた。

小さな部屋。
穴のあいたプラスチックの壁越しには、パイプ椅子が一つ、在ることが定まっているかのようにぽつんと置き去りにされている。
その真向かいに私が座り、約束の時刻からもうすでに5分が経過していた。
まだ、そのパイプイスの右手後ろ側にある扉は開くことがない。
あまりにも待たされているからか、私は瞼がふと重くなっていることに気がついた。
こんな場所で眠ってしまうわけにもいかず、私はポケットの中にあった強いミントのフリスクをざっと口の中に放り込んだ。
ボリボリと噛み砕くと吹き抜ける強烈なミントの香りが口の中から喉の奥、鼻の奥まで広がり、目がとりあえず開く。
そういえば、昨日とその前、同僚の受け持っていたケースの相談に乗ったりなんだりで、飲酒量はぐんと増えたけれど、睡眠量はがくんと減らされたことを思い出す。
まだミントの匂いに隠れて胃の奥の方で、昨日のブランデーが香っているようで、年はとりたくないものだと改めて感じた。
この依頼主の名前や容疑、その他もろもろにも目を通してからベッドに入ったものの、それがくっきりと頭に残っていないので、私はファイルをめくった。
名前から見ると、今から現れるのはごく普通の女性で、経歴を見ると、私よりも年は1つ下である。
入谷真智(いりたにまち)、私たちのように法律事務所…のような場所で働いていたらしい。
容疑は、詐欺に自殺幇助、そのほかにいろいろ。
最終学歴は、一般に耳にすればちょっと驚くような難関で有名でブランドのある、俗にいう一流大学だった。
よくこのような人物はいる。
墜ちる場所まで墜ちてしまうまでに、いろいろなドラマがあり、そのドラマを今から私はひも解いて行かなくてはならないのだ。
しかし、この手の人間には、プライドが高く、なかなか自分のこれからの方向性を決めることや、罪の意識というものがないことが多い。
いや、『そういう関係者』からの依頼ということは、もともとが『そういう関係者』の血筋なのだろうか。
だったら、ドジとしか言いようがないし、さらに弁護するにあたって厄介になり、また飲酒量が増えてしまいそうでぞっとする。
そんなもろもろの思いをめぐらせているうちに、ガチャリ、とパイプ椅子の向こうの扉が開いた。
ゆっくりと開かれた扉の向こうから、女性警官に連れられて、入谷真智、という女性がやってきた。
作品名:フィアンセになりたい 作家名:奥谷紗耶