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サニーサイドアップ
サニーサイドアップ
novelistID. 56539
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センパイんとこ住まわせてもらっていーっすか? <後編>

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 手の中でビールの缶を撫で回しながら、亜希がしんみり呟いた。和歌子は何も言えず、ザルの中の枝豆をかき回し続けた。
「倫さ、あいつ、優しいだろ?」
 動揺して、ザルごと枝豆を落としそうになった。なぜか動悸が早くなり、目の奥が熱くなった。和歌子はぐっと唾を飲み込むと、下を向いたままコクンとうなずいた。
「おっかねー仏頂面だけどな」
 亜希はからっと笑って和歌子の肩をポンと一つ叩くと、ビールを抱えて六畳間に戻っていった。
 目元から涙の気配が消えるまで、和歌子はザルの中の枝豆を、これでもかと洗い続けた。


「そーいやさ、あんた龍一先輩とはまだ連絡取り合ってんの?」
 
 盛り上がりのピークが一段落し、皆思い思いの姿勢でくつろぎ始めた頃だった。片膝を立てた姿勢でビールをあおっていたケーコがそう言った途端、和歌子以外の視線が一斉に一人の人物に注がれた。
 その視線の先には、倫がいた。
「なんだよいきなり」
 枝豆の皮をむきながら、倫は憮然として言った。
(龍一先輩? 誰?)
 聞き覚えの無い名前に、和歌子の頭の中でクエスチョンマークがぶんぶん飛び回った。
 龍一?そんな先輩いたっけ?
「あーあたしも知りたかった!」
「あれから、んー……4年かあ」
「えーもう4年にもなんの? 年取るわけだわー」
「ほんでどうなのよ、あれから」
 口々に言い募る先輩達の中で、ひとり部外者然として座る和歌子は、ジュースのグラスを両手で挟んだまま、座卓の料理から目を離せずにいた。
 胸の中に灰色の雲がぞわっと広がって、足先がしんと冷えた。
 知らない方がいい、と思った。
 これはきっと、今の自分にとって聞いてはいけない類いの話だ。
 だけど。だけども。
 せっかく本能がそうやって警鐘を鳴らしてくれたのに、知りたい欲求の方が勝ってしまった。
「あの……龍一先輩って、誰すか?」
 倫の顔を見る事ができない和歌子は、座卓の豚キムチに向かって話しかける格好となった。
「あれ? ワコ知らなかったっけ?」
「そっか、うちらが1年の時の話だから知らないか」
「倫ワコに話してなかったのー?」
 黒い予感が走る。和歌子は衝撃に耐えるように、無意識に心を鎧った。
「倫の元カレだよ。商業の1コ上」
 亜希の放った何気ない一言は、和歌子の急ごしらえの鎧を木っ端みじんに砕いた。
「めっちゃイケててねー」
「そうそう」
「だけど2、3ヶ月で別れちゃったんだよなー」
 和歌子の周りから急速に景色が遠ざかっていった。話し声は壁越しの会話のように遠く響き、耳の中で平衡感覚がぐるぐる狂った。まるで座ったまま空中に放り出されたような気分だ。
 
 だってだってセンパイ今までそんなことただの一度も言ったことないアタシ知らないそんなこと知らないだって全然聞いたことないしセンパイ言ってくれなかったしアタシセンパイにそんな人がいたこと全然知らない知らないシラナイ聞ーてないキーテナイ

「そんでどーなんだよ倫? まだ連絡取り合ってんの?」
 もはや誰の言葉かすらわからない。和歌子は俯けていた顔をぐぐっと持ち上げた。
 座卓を挟んで右斜め前、倫の薄茶色の瞳が和歌子をとらえた。あ、と思った刹那、倫はすっと視線を逸らせた。 

 ここにいたくない。唐突にそう思った。

 和歌子はその場にすっくと立ち上がった。頭がくらっとしたが、何とか倒れるのはこらえた。

「ワコどした?」
「いきなり何だよ」
 注目を一心に集めたのはわかった。先輩達が何か言っているのも聞こえてはいる。
 
 でも、アタシは。
 アタシはあなた達の話を聞いていたくないんです。

「……酒買ってきます」
 考えうる限り合理的な言い訳はこれしか思い浮かばなかった。和歌子は回れ右をして、迷いの無い足取りで玄関に向かった。ビーチサンダルをつっかけ、そのままの勢いでドアを開ける。背中に先輩達の声がばしばし当たったが、ドアを閉めてしまったらそれでおしまいだった。

 ♢ ♢ ♢

 何も考えず目についた酒を片っ端からかごに入れていったら、レジで金が足りなくなった。
「あー……」
 と言ったままぼんやりカゴの中を眺めるだけの和歌子に、若い男の店員は明らかに迷惑そうな態度で「どれか戻すっすか?」と面倒臭そうに聞いた。中の2、3本を適当に外し代金を支払ったら、手持ちの金はほとんどなくなってしまった。
「あざーっしたー」
 やる気の無い店員のやる気の無い挨拶に見送られて、和歌子はコンビニを後にした。
 深夜の住宅街は人通りもほとんど無く、ビーチサンダルがアスファルトを叩く音とぶら下げた袋のカサカサ音が、やけに大きく響く。頼りない街灯の光には、大きな蛾がびっしり張り付いて、不気味な陰影を形作っている。普段なら心細さに自然と足早になってしまう所だが、今の和歌子にはそんな「瑞々しい」感情を抱く余地はなかった。
 ペタ ペタ ペタ……ピタッ   ペタ ペタ ペタ……ピタッ
 2、3歩進んでは立ち止まり、また2、3歩進んでは立ち止まり。まるで出来の悪い牛歩だ。
 部屋を飛び出してきたのは正解だった。あのままあそこに居続けたら、きっとひどい醜態をさらしていたことだろう。だけど他に行く当ての無い身でこのまま夜の街をさまよい続ける訳にもいかない。早く心をあるべき場所に落ち着かせて、何でもない顔して皆の所に戻らなければいけない。
 そう、理性ではわかっているのだが
 
 何勝手に裏切られた気分になってんの。バッカじゃないの。思い上がってんじゃないよ。ありえないでしょ。
 
 わかってはいるのだが、湧いてくるのはネガティブなワードばかり。しかもすべて至極ごもっともで、和歌子は自分で自分の言葉に打ちのめされて、とうとう一歩も動けなくなってしまった。

「……ヒッ」
 たった一度の喉の震えが、涙の火ぶたを切ってしまった。大きな熱の塊が、喉を通って口、鼻、目に一気に押し寄せる。
「ウエッ……ヒッグ」
 涙の第一弾がぼたぼたぼたっと目元からこぼれ落ちた。
「……あーー……」
 第二弾は鼻と口から、ばかみたいな泣き声と透明な鼻水が同時に溢れた。
「うぁ、ゔぁ、ゔぁーーー!」
 あとはもう、体はただの涙の入れ物と化し、ひたすらに涙を吐き出し続けた。

 センバイ、ゼンバイ、ゼンヴァイ……!!

 ーー頭をポンと叩いてくれた時の手の重み、敷布団に残った体温、「もうどこにも行くなよ」の言葉、唇の端をちょっと上げただけの笑顔、湿ったフィルターの感触、ベランダに立つ細い背中ーー

 和歌子を支える倫の記憶全てが、涙に混じって体から吐き出されていくような気がした。
 「センパイの一番は自分」だと思い上がっていた気持ちが、一気に奈落の底まで突き落とされてしまった。元々不安定だった和歌子の存在価値が、元カレの発覚によって根底から揺さぶられてしまったのだ。
「ゔぁ、うっぐ、ひっく……」
 軽い吐き気にえずきながら、和歌子はアスファルトに涙を落とし続けた。両足は地面にめり込んだように微動だにできず、重い袋をぶら下げた両腕は痺れを通り越して感覚がなかった。
 
 消えてしまいたい。
 そう願った直後。
 
「ワコ?」