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サニーサイドアップ
サニーサイドアップ
novelistID. 56539
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センパイんとこ住まわせてもらっていーっすか? <後編>

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 けれどもここ最近の和歌子は様子が違った。この間の煙草しかり、今日の散歩しかり。ささいなことでも、たとえ突拍子も無い事でも、何かを望む気持ちが和歌子の中に芽生えたのだとしたら、それはいい兆候だと倫は思った。何かを欲する気持ちは、そのまま「生きる気力」に繋がると思うからだ。
 和歌子の希望なら出来る限り叶えてやりたい。たとえそれが真夏の炎天下の散歩でも。

 ♢ ♢ ♢

 アパートの外は想像以上の暑さだった。
 外階段を下ると、道路のはるか向こうにゆらゆら陽炎が立っていた。帽子なんて洒落た装飾具を持たない二人のむき出しの頭頂部に、日光が鋭い牙を向いて真上から突き刺さってくる。吹き出す汗は蒸発する事無く、じっとり肌に張り付いている。
「……」
 二人は、和歌子のビーチサンダルのペタペタ音をBGMに、人影どころか猫の子一匹見当たらない住宅街を無言で歩いた。何となく漂う決まり悪さが、二人の間に奇妙な間隔を作っていた。
「センパイ、河川敷行った事あります?」
 最初の曲がり角に差し掛かったあたりで、倫の半歩後ろを黙って歩いていた和歌子がそう切り出した。
「ん?……ああ、そういやねーな」
 和歌子に訊かれて初めて気付いた。ここに住み始めて一年以上経っているが、ベランダから眺めるばかりで、実は一度も河川敷に足を踏み入れていない事に。
「じゃあ、ちょ、ちょっと行ってみませんか?」
 なぜか緊張したような固い声だった。もとより倫に異論は無い。「んじゃ行ってみっか」と、河川敷に通じる道に足を向けた。和歌子がそのあとをぺたぺた付いてくる。
 土手の下から見上げると、頭の上にぽっかり青空が広がっていた。土手の緑が光線を和らげてくれるのか、ここから見る空は穏やかで、青と緑のコントラストが、強い日差しで弱った目を優しく労ってくれるようだ。
 軽く息を弾ませながら、土手の階段を上る。最後の段に足をかけた瞬間、倫の首筋を冷たい風が吹き抜けていった。
 目の前があんまり急に開けたので、倫は別世界に連れてこられたような心地になって、一瞬自分の居場所を見失った。
 整然と並んだ桜の木が、白っぽいアスファルトにぽつぽつ影を落としている。土手には青々と草が生い茂り、ゆったり流れる川も空の色を映したような青だ。
 涼しいじゃねーか。倫はそう思った。川を渡る風は部屋で感じるよりずっと乾いて爽やかで、等間隔に植えられた木が作る樹影は、日光にあぶられた肌をひんやり包んでくれる。
「悪くねーじゃん」
 無意識にそんな言葉が出た自分に驚いた。和歌子が隣で照れくさそうに身じろぎする。
「センパイ、あっち見て下さい」
 木陰の涼を楽しみながらぶらぶら歩いていたら、和歌子が住宅街の方向を指差した。その先に、見慣れた青い建物があった。

 ああ、こっからアパートが見渡せるのか。

 開けっ放しの窓辺に、安っぽいカーテンがひらひら揺れている。壁に張り付いた小さなベランダはいかにも頼りなく、二人が乗って崩れないのが奇跡と思えるほどだった。
 何となく、和歌子はこれを見せたかったのかな、と思った。本当に何となくだ。
「オマエここ来た事あんの?」
 何の気無しに尋ねたのだが、返事までだいぶ間があった。歩きながらひょいと隣を見たら、和歌子はビーチサンダルのつま先に視線を落としていた。
「はい、前に、一度だけ」
 ぽつ、ぽつ、ぽつと雨粒を落とすような調子で和歌子は呟いた。

 和歌子が泣いてる。涙を流さず泣いてる。倫はそう思った。

 ある衝動が倫の体を貫いた。
 和歌子を抱きしめたい。
 それは「情動」と言ってしまってよかった。
「どうしてもセンパイとここに来たかったんです」
 顔を逸らしてばかりだった和歌子が、倫の顔をはっきり見据えて言った。黒目のくっきりした潤んだ瞳が、まっすぐ倫の心を捉えてくる。
 そんなはずないのに、たった今生じた情動を和歌子に見透かされた気がして、倫はうろたえた。
「あの、センパイ」
 和歌子が歩みを止めた。2、3歩先で倫も足を止め、わざとゆっくり振り返る。
 ベビーフェイスの中で、二重の瞳が揺れていた。和歌子が何か大切な事を伝えようとしているのが表情から読み取れた。倫の心は、和歌子の瞳にがっちり捉えられていた。
「あのね、センパイ、アタシ……」
 和歌子が一歩踏み出した。倫は凍り付いたようにその場を動けない。早まる鼓動、こめかみから流れ落ちる汗......。
 
 もうすぐ何かが変わる。そんな予感が走った瞬間

 ♪ ♪ ♪~

 場違いな電子音が二人の間に流れていた空気を容赦なく切り裂いた。
 倫と和歌子は呆然と顔を見合わせた。行き場の無い空気は、あっという間に真夏の大気に霧散して消えた。
「センパイ、でんわ……」
 和歌子が視線を倫の顔から自分のつま先に戻して、ポツリと言った。倫は黙ってポケットに手を突っ込み、じゃかじゃかわめいている携帯を取り出した。電源を切っておけば良かったと後悔したが、後の祭りだ。
 倫は着信表示も見ずに、携帯を耳に当てた。
「……もしもし」
『あ、倫元気? 相変わらず無愛想な声だねー』
「なんだ、亜希かよ」
 電話の相手は「竹田亜希」、倫に和歌子を「押し付け」た、高校時代の仲間だった。
『なんだはないでしょなんだは! まあ、あんたたちどうしてるかと思ってさ』
 亜希は、和歌子と誠也を巡る一連の騒動を知る数少ない人間の一人だった。
『ワコの様子はどう? 元気にしてんの?』
 倫は和歌子にちらりと目を向けた。和歌子はジャージのポケットに手を突っ込み、所在なげに小石を足先でいじっている。
「ん、まーな」
『そっか。ま、いろいろあったもんね』
 倫の脳裏に思い出すのもおぞましい男の顔が蘇った。頭の中でパンチを繰り出し、思い切り蹴り上げてやった。
『ところであんたさ、どうせ行くとこ無くて暇してんでしょ?』
「うるせーな悪いか」
『すごむなって! いやさ、純とケーコもあんたたちのこと気にしててさ。そんで、明日みんな休みだからさ、あんたんちで飲もうかって話になったんだけどね』
 純もケーコも倫の同級生で、さんざんつるんだ仲だ。
『都合どーよ? ま、あんたもワコも大変だったし、息抜きになればいいかなと思って、さ』
 小石をいじるのに飽きたのか、和歌子は川を眺めていた。その小さな背中を見ながら、それもいーかもしんねーな、と倫は思った。亜希も純もケーコも和歌子の事を可愛がっていたし、湿ったところのない気持ちのいい連中だ。何より和歌子のいい気晴らしになるかもしれないと思った。
「いいよ、空いてるし。あ、酒とつまみは持ち込みな」
『ちゃっかりしてんね。OK、じゃ7時頃行くわ。じゃね』
 切れた携帯をポケットに突っ込み、「明日、亜希とか来るって」と和歌子の背中に声をかけた。「まじすか?」と喜ぶかと思いきや、和歌子は首だけで振り返り、「……つまみ、作りますね」と曖昧な笑顔を浮かべた。
 
 中途半端に途切れた和歌子の言葉は、霧散した空気とともに大気に溶け込んでしまった。
 急に暑さがぶり返したような気がして、倫は空を仰ぎ、目を細めた。