慟哭の箱 10
一涙
殺す。殺してやる。同じような恐怖を、こいつにも与えてやる。
それが自分には、自分だけには許されている。
「殺す…!」
無理だろうなあ、と余裕を取り戻した表情で武長は言う。
「きみにはできないよ」
「…できる、」
「そんなに震えてかい?」
こちらに近づく武長。その靴音で、心臓がドンと揺れるのがわかった。覚えている。この靴音。部屋に近づいてくる足音。この音は始まりの合図だった、いつも。
「できないよ。きみは覚えているんだろ?恐怖を」
寒い。急に寒くなった。なぜ?喉の奥が鳴っている。
怖いものが来る。
「あ、ああ…」
だめだ。
手を滑ってナイフが落ちる。壁際に追い詰められ、旭は震えた。怖い。勝てない。また、怖いことをされる。逃げないと。足が動かない。
「ほら駄目だったろう?形勢逆転だ。どうする?」
ナイフを手にした武長が、それを旭の頬にあてた。冷たい感触。身体が動かない。金縛りにあったように。首筋に、ぬるい息がかかる。覚えている。始まる。地獄が。また。嫌だ。もう、あんな思いは、もう二度と。ぎゅっと目を閉じる。
「一弥、ごめん…」
一弥。また同じことの繰り返し。逃げることも、現状を打破することも、旭にはできない。
「手をあげて」
静かな声が響き、旭は閉じていた目を開けた。
「武長正二郎。殺人未遂の現行犯だ。ついでに過去の暴行事件について話を聴かせてもらおうかな」
清瀬だ。沢木を伴い、玄関に立っている。拳銃を構えて。
武長の手から音をてたててナイフが落ちる。