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LISBOA 記憶の欠片 1 (8/5加筆)

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「だろうな。あんまり美味くなかった。やっぱりベレンの方がいい、なんて連れに文句を言いましたよ。だから今日も待ち合わせをこの店にした」
 賢明ですね、とホアキンは笑った。
「この店のナタは誰もが別格扱いですからね。しかしあなたが行ったアルファマの方も、オーナーが変わってからはナタや他の菓子も美味いと人気店になってるんですよ。私は店に入ったことはないんですがね」
 店も改装されて、この界隈にしてはあか抜けたカフェの様相になったという。
「そりゃあいい。この物件に心が傾く大きな要素になりそうだ」
「片岡さんは本当にナタが好きなんですねえ。ポルトガル人の私としては嬉しいですが」
「ポルトガルと聞いて真っ先に思い出すのは黄色い菓子ばっかりでね…特にこのナタは…俺にとってのポルトガルそのものかもしれない」
 ナタ、とは、パイ生地にカスタードを流し込んで焼いただけの素朴な菓子である。ポルトガルの伝統的で最もポピュラーな菓子だが、それだけでなく海を超えて…特に東南アジアから果ては日本にまで「エッグタルト」の名で広まった。だが、無類のナタ好きである片岡にとっては日本やマカオやシンガポールいずれのエッグタルトも「エッグタルト」でしかなかった。彼にとって「ナタ」はポルトガルにしか存在しないものなのだ。
 それは何故なのか…この菓子の素朴で穏やかな味わいがポルトガルという土地の持つ空気を思い起こさせることと、そして…
 
 アパートのキッチンで、オーブンレンジの中を覗き込んでいる彼の後ろ姿が脳裏に蘇った。中を開けて取り出した黒い鉄板の上に、表面がこんがり焼けた黄色いものが乗っているのを見て後ろから声をかける。
―上手くいったか?
 振り返って、彼が得意げに笑う。
―多分ね。食べてみて。熱いからやけどするなよ。
 そのまま手に持つには熱すぎたので、小皿に小さな丸い菓子を一つ取って少し冷めるのを待ってから、端を齧ってみる。
―いい線いってるじゃないか。いつかベレンのナタを超えられるかもな。
―そうかなあ?
―ああ、絶対できる。俺がちゃんと試食してアドバイスしてやるから。
 
 …だが、その時を見届けないまま俺は彼と別れた。
 あれから十年の間一度も会っていない。それなのにこの菓子を見ると、未だ昨日のことのように当時のことを思い出す。

 俺にとって、「ナタ」は一生忘れられない追憶の欠片なのだろう。

 片岡は菓子の残りを平らげて、エスプレッソを一口飲んだ。リスボンでは「ビカ」と呼ばれ、人々の生活になくてはならないほど浸透している飲み物だが、いつもは心地いいこの苦みが、今日は何故か少し辛く感じる。しかしそれを払拭するように、彼はホアキンに努めて明るく話しかけた。
「アルファマの物件を是非見せて下さい」
「わかりました。日時を設定してご連絡します。ところで、今からお時間があれば夕食をご一緒に如何です?」
「お申し出は嬉しいのですが、婚約者をラパ地区のホテルに置き去りにしているのでそろそろ戻らないと…口も聞いて貰えなくなりそうだ」
 片岡は苦笑いを浮かべて頭を掻いた。
「いいレストランがありますから今度お二人をお連れしますよ。そういえば片岡さんは甘いものがお好きのようですが…お酒は?」
「もちろん大好きです。最近アレンテージョのワインが気に入っていましてね。楽しみにしてきたんですよ」

 ◆
「…ねえ、本当にここにホテルを作るつもりなの?」 
 エリはリスボンの街が気に入っていないようだ。スマホで写真を撮りながら片岡がああ、と短く答えると、彼女は深い溜息をついた。
「どうかしてるわ…そりゃあ気楽な感じだけど気の利いたお店もレストランもないし、退屈だし建物はボロくて…挙げ句にこんな坂道や階段ばっかり。どこがいいのよ。二週間も過ごしたけど私には理解できない」
 エリは膝丈のスカートと高いヒールの靴でアルファマの階段を上り下りするのが苦痛らしい。目が大きくはっきりした顔をむくれさせ、整えられた綺麗な眉をつり上げてまくしたてる。
「リスボンは日本人には余りなじみがないけど、欧米人にはリゾートで人気があるんだよ。物価も安いし」
「まあ、確かにモノは安そうだけど…それでも同じ田舎ならフランスの方が絶対いいわよ。住むにしたって…考え直したら」
「フランスなんて。めぼしいエリアは殆ど開発され尽くしてるよ…リスボンの方が伸びしろはあると思うし、ここにいたってフランスには簡単に行けるじゃないか。市街地から空港までこんなに近い街はそうないぞ」
 正直なところ、何故フランスでなくポルトガルかと問いつめられると明確な答えは出せない。だが事前調査はちゃんとしたし、快適で個性のある施設を作れば採算は取れるようになるはずだ、と片岡は考えている。
「そう…まあいいわ。暫くいたらいいところも見つかるかもしれないし。頑張ってね」
 言いたいことを言うが後腐れもない。うんざりすることしきりなのに、それでも彼女と婚約したのはその気楽さ故である。五つ年下のエリは片岡が一時日本で会社を経営していた時に行きつけだった、銀座の某ハイブランドの旗艦店の副店長だったが、その後片岡がフランスのホテル会社に転職してから偶然パリで再会した、といういきさつだ。
 片岡としてはそれほど結婚を焦っていなかったのだが、フランスの企業をやめてまた事業を興すと聞いて一層時期を逃すと危機感を覚えられたのか、婚約とリスボンへの同行を新居探しの名目で押し切られたのだった。
「そんな靴でこれ以上階段を歩くのも辛いだろ?でも俺はもう少しこの近辺をよく見ておきたいんだ。…だからさ、ほら、ここを少し下ったところを右に曲がったところに広場があるらしいから。そこで暫く休んでてくれないか?」
 二人は例の、片岡が以前通った記憶がある路地にいたのだ。ホアキンに薦められたアルファマ地区の物件とその周辺を下調べしているところだった。
「ええ?何それ?広場のベンチにでもいろってこと?」
「いや、多分カフェがあるからそこにいてくれ。頼む。三十分ほどで終わるよ」
 ホアキンが言っていた、オーナーが変わってから流行っている店とやらがそこにはあるはずだった。
「もう!でも、いいわよ。坂道を歩き続けるよりはマシだから」
 エリは首をすくめて軽く息をつき、早く迎えに来てよ、と手を振りながら階段を下っていった。片岡にとっても、エリが先にいてくれれば気になっている店にも立ち寄る口実になる。いかんせん、卵菓子はダイエットに悪いだの濃いコーヒーは苦手だので、片岡が大好きなパステラリアにもなかなか付き合ってくれないのだ。とにかく二言目にはオーガニックだ、マクロビオティックだと…ホテルの朝食のコンセプト作りには役立ってくれそうだが。
 片岡もまた、溜息をついて彼女の後ろ姿をしばし見送った。

 店先にかかった鉄製の小さな飾り看板にPessoas à espera(待ち人)の名を冠したカフェには、十一月半ばの曇った肌寒い天気の中、外にまで人があふれていた。