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LISBOA 記憶の欠片 1 (8/5加筆)

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ぱりり、とパイ皮の砕ける音がしたと同時にふんわり甘く、滑らかなカスタードの風味が口の中に広がった。
 ああ、この味だ。
 彼の口元から思わず笑みが漏れた。十二年前と少しも変わっていない。「アズレージョ」と呼ばれるタイルで装飾された店の外観も手直しして小ぎれいになっているが、やはり当時のままだった。店頭で菓子とエスプレッソを味わいながら辺りの様子を観察する。十一月半ばのオフシーズンの午後とあって、リスボン随一の観光スポットであるベレン地区にも殆ど人はおらず店の前の通りも閑散としているのに、ここにだけ人が集まって店頭のカウンターに並んでいる。皆、彼と同じくナタを求めてやってきたのだ。
「片岡さん」
 名前を呼ばれて我に返って振り向くと、ここで待ち合わせの約束をした人物が立っていた。黒髪で髭が濃く、背は余り高くない。いかにもラテン系の男の顔だが口調は穏やかだ。
「やあ、どうも…すみません。こんなところへお呼びだてしてしまって」
 片岡、と呼ばれた男は流暢なポルトガル語で一言詫びると、手元にあったカップの中身を一口飲んで、食べかけていた菓子の残りを頬張った。
「奥のテーブルへ行きましょうか。あなたもナタを如何です?俺もあと一つ二つ追加しなきゃ」
「頂きます。この店のナタを嫌いなリスボンっ子なんていませんよ」

          ◆
 片岡誓(せい)の両親は共に日本人だったが、商社に勤めていた父の赴任で幼い頃から十年ほどリオデジャネイロで暮らしていた。ポルトガル語を話せるのはそのためだ。彼の母は、彼が4歳の時…父の赴任の直前に突然倒れてそのまま亡くなった。父と子はその後リオからニューヨークへ移り、片岡は高校を経てコロンビア大学へ進んだ。初めて起業したのはまだ大学生の時だったが、その後立ち上げた会社を売却しては一旦企業に勤めてみたり、そしてまた起業したりしながら、三十五歳になる現在まで比較的順調に人生を歩んできた。
「なかなか華やかな経歴でいらっしゃいますね…だが、ずっとIT事業に携わってこられたあなたが、何故突然ホテル経営の道へ?」
「突然というわけでもないですよ。ここ二年ほどはフランスの企業でヘリテージホテルをリノベーションするプロジェクトに関わってきました。何だろう、ITの世界は移り変わりが激しいし…以前はそれが楽しくて仕方なかったんですがね…俺も歳を取ったかな」
 そんな軽口とは裏腹に、片岡誓自身は日本人にしては長身でスタイルが良く、顔立ちもはっきりして溌剌とした印象を与えていた。
「いや、とんでもない…それにしても大型のシティホテルよりも、古い建築物を利用するブティックホテルに興味がおありですか」
 この日片岡が待ち合わせたのはリスボンの不動産会社の社員だった。二ヶ月ほど前にホテル改装に向いた物件を探すよう依頼していたが、やっと返答があり、詳細を調査するためにリスボンへ来た。そしてまず話を聞くためにこの菓子店を待ち合わせ場所に指定したのだ。
「大型ホテルには余り興味ないですね。先日も仕事でブリュッセルに行って中央駅前の大手資本のホテルに泊まったんですが…まあホテル自体は悪くなかったが個性がなくて。それに今はエコと言えば何でも許されると思ってるんですかね?あのアメニティはお粗末だったな…おっと申し訳ない。ホテルの話になるとつい長くなる」
 菓子店の店頭は小さくすぐに人があふれてしまうが、奥のテーブル席は外観に反して広かった。夕刻にさしかかってきたせいか人もまばらで、スーツ姿の男が二人で話し込んでいても余り違和感がなかった。
 片岡は勤めていた会社をやめて、再び企業しようとしていた。不動産屋のホアキンの言う通り、古い民家や修道院などの歴史的な建築物をホテルに改修する事業に興味を持ち、自ら経営に乗り出そうとしていたのだ。ホアキンが持ってきた物件は、ここベレン地区に比較的近く、かつて修道院だった建物と、アルファマ地区に近い民家の二つだった。
 テージョ河北岸に発展してきたポルトガルの首都リスボンには七つの丘があると言われるが、まず観光客に人気の旧市街は二つの丘…サン・ジョルジェ城を頂とするアルファマ地区と、対面するバイロ・アルト、この二つの丘に挟まれ谷間のように存在するバイシャ、シアード地区がある辺りだ。大型ホテルはこれより少し北のリベルターデ大通りにいくつかある。しかし町歩きを楽しみたい観光客には先の三つの地区にあるホテルが人気のようだ。ベレンにはテージョ河を背景にジェロニモス修道院や発見のモニュメントなどがあり、ツアー客も必ず訪れるこの街のランドマーク的な地区だが、繁華街には遠く片岡が狙う個人旅行客には好まれないだろう。
 そんなわけで修道院の方は立地の面で諦めざるを得なかった。建物自体は美しく、改装にそれほど頭を悩ませる必要もなさそうだったので、交通の便が良ければ、と思ったが最寄りのトラム停留所まで歩いて十五分かかるらしい。この街は坂が多く同じ十五分でも他の都市とは印象が違うのだ。
 となると、アルファマか…
 ホアキンが持参したタブレット端末で建物の画像を見せてくれた。古びた家を積み上げて作ったように雑多な、だが不可思議なバランスで風景が成り立っている。
「画面やや右に固まった数件の民家です。比較的状態も良いですし、コネクトして一つの施設にすればそこそこの規模になりますよ」
「立地は?」
「この画像ではわかりませんがサン・ジョルジェ城に近く、高台にあります。テージョ河方向に窓がある建物もありますよ。交通は…歩いて2分ほどでロシオ広場行きのミニバスの停留所が」
「まあまあ、かな」
 片岡はそう呟くと端末の中の画像に目をやったまま、皿の上に一つ残っていたナタを右手に取ってかぶりついた。空いた左手で物件を様々な角度から撮影した画像を指で送りながら確認していく。
 片岡の指先が、ある画像の上でぴたりと止まった。
 古びた住宅と狭い階段が続く路地。
「これは…この物件からテージョ河畔に抜ける道筋を撮影したものです」
 見覚えのある風景だった。
 
 そうだ。あの時も今日と同じ晩秋の午後だった。午前中は雨が降っていたが午後から上がって…二人で歩いた階段が濡れて鈍く光っていたのを覚えている。迷路のように狭い路地の間から海のようなテージョ河に沿う丘に無数の建物が密集した広大なパノラマを眺め、坂道を下ればすぐに河岸が見えてくる。どれだけ廻り歩いても飽きない空の下の迷宮。
 あいつはこの街並をとても気に入っていて、できればアルファマに住んでみたいと言っていた。でも俺は、「ここじゃ仕事に通うのが不便だ」と…

「十二年前リスボンにいた時に、この道を通った記憶があるんですよ。少し下って右へ曲がって暫く歩くと小さな広場があって…そこにパステラリアがあったはずだ。腹が減ってそこでナタを買った気がする」
「よくご存知ですね。その通りですよ。今でもその場所にはパステラリアがあります。ただ、多分あなたが行かれた頃とはオーナーが変わっていると思いますが」
 ホアキンの情報にああ、と片岡は頷いた。