小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

ファースト・ノート 9~10

INDEX|8ページ/10ページ|

次のページ前のページ
 

 長机とパイプ椅子の簡素な部屋に通された。形だけの履歴書と発売待ちのミニアルバム『臨界点』を渡したあと、この場で歌ってほしいと言われた。事前に楽曲のチェックをしてくれていたようで、リクエストに答えて何曲も歌った。小さなデッキで録音しているようだったが、観客のように拍子を取ってくれる彼に乗せられて新曲も披露した。

 別れ際に、自分の一存では決定できないから上に掛け合ってみると言われたが、感触は悪くなかった。事務所の玄関先にたまった落ち葉を踏みしめながら、どうにかしてあのプロデューサーと一緒にやっていきたいと思った。
 ポケットに手を突っ込んで、着信のことを思い出した。風に吹かれて降り落ちる銀杏の葉を眺めながら、電話をかける。
 初音が応答する。十日ぶりに聞く声はどこか沈んでいるように感じた。

「ごめん、ちょうど事務所の人と会ってたところでさ」

 高揚した気分が抑えきれず、声がうわずってしまう。初音は要の話を一通り聞いたあと、一呼吸おいて言った。

「おじさん、もうだめかもしれない」

 弱々しい声が耳元で響いた。息を飲んで次の言葉を待つ。

「私がお水をあげてたら、呼吸が止まっちゃったの。看護師さんがすぐに吸引してくれたから心臓は動いてるけど、もう人工呼吸器がないと維持できないって。今から個室に移るんだって。大事な時に電話してごめん。でも次に帰ってくるまで、もたないかもしれないから」

 言葉が途切れた。電話のむこうでひとり泣いているようだった。

「ごめん、私のせいで、おじさん死んじゃうかもしれない」
「はっちゃんのせいじゃないよ。すぐ帰るから。すぐ帰るから、待ってて」

 言い聞かすように何度も言ったが、彼女の嗚咽は止まらなかった。声しか届かない距離がもどかしかった。強い風が吹いて、まだ緑色の残った銀杏の葉まで吹き飛ばされる。実りきらない銀杏が裸になった木にぶらさがっている。

 ギターのハードケースを担いだまま駅にむかって走った。借りているマンスリーマンションに戻る時間も惜しかった。到着する前に父が亡くなれば、初音は一生自分を責め続けるかもしれない。両足がもつれ、運びなれたギターが重く感じられた。
 新幹線の車内で何度も携帯電話を確認した。
 父の命がもうすぐ終わる。心臓が押しつぶされるように痛む。隣に座ったサラリーマンのノートパソコンを覗きながら、自分だけが非日常の空間に浮かんでいるようだった。
 


 住みなれた街が夜の闇に包まれた頃、入院病棟にかけこんだ。薄暗くなった廊下に初音が立っていた。疲れ切った様子で壁にもたれ、携帯電話を握っていた。
 かけよって行くと、足音に気付いたのか顔を上げた。

「ごめん、ごめんね。私どうしたら」

 そう言って要のタンガリーシャツの両袖を握った。腕を回して体を抱きとめる。途端に彼女の表情が崩れ、涙がこぼれ始めた。額を肩に押しつけて何度もしゃくりあげる。
 髪をなでていると、病室から看護師が姿を見せた。最初に電話をかけてきてくれたあの看護師だった。

「今、落ち着いてますから、中に入って下さい」

 看護師に導かれて個室に入った。人工呼吸器を取りつけ、首にもチューブが挿入された父が眠っていた。相部屋にはなかった生体情報モニタが設置されている。
 近づくと父がうっすらと目を開けた。まぶたの奥で瞳が動くのがわかった。掛け布団に腕が力なく横たわっている。もう自力ではほとんど動かせないようだった。
 パイプ椅子に座って父の耳元で言った。

「メジャーデビュー目前なんだ。もうちょっと生きてもらわないと困るよ」

 父の手が動く気配を感じた。鶏がらのように骨ばった手を握った。厚い皮の感触が、育ての母と三人で手をつないで歩いたことを思い出させる。
 頬の筋肉が緩んで微笑んだ気がした。父が元気だった時よりもずっと、生の感情が伝わってくるようだった。長い間、二人を覆っていた濃い霧が晴れ、澄んだ空気だけが病室に満ちていた。

「今夜はここに泊まるから。明日からまた仕事なんだろ?」

 要がそう言うと、泣きはらした目のまま、初音は首をふった。もともと細面だった顔が一層痩せた気がした。胸の前で手を組み、「仕事なんていけない」とつぶやく。
 要は初音の背中をさすりながら言った。

「こういうときはいつも通りの生活を送った方がいいよ」
「でも要は……すぐに戻らないといけないんでしょ?」
「今日受けたところに賭けるよ。最期の日まで、東京には戻らないつもりだから」

 初音は静かにうなずいた。落ち着くのを待って、タクシー乗り場まで送っていった。
 タクシーに乗りこんだ初音が何か言いたそうな面持ちで要を見た。
 要はポケットに手を突っ込んだまま言った。

「気をつけて」

 微笑みかけると、初音も少し口元を緩ませた。外界の空気を遮断するようにタクシーの扉が閉まる。走り去るのを確認してから、ナースセンターにむかった。簡易ベッドの申請をして個室に戻る。
 生体情報モニタの電子音が狭い室内を支配している。父は死んだように眠っている。簡易ベッドを待つ間、パイプ椅子に体を投げ出した。ふくらはぎがつりそうなほど張っていた。長い長い夜の闇が全身にのしかかるようだった。

                ***

 一週間後、朝から初音が病院にやってきた。外はよく晴れていた。日ごと和らぐ日差しを少しでも取り入れようとカーテンを開けた。窓から新鮮な空気が流れこんでくる。
 あれから父の容態に大きな変化はなかった。ときどき呼吸が乱れて看護師が吸引にくるものの、睨んだ心電図がそのまま止まってしまうことはなかった。
 言葉を失った父は、瞳の動きで意志を伝えるようになった。どの程度の意識があるのか判別は難しかったが、喜んでいるときと痛みに襲われているときは何となくわかった。

 父とは一生分かり合えないと思っていた。死の瀬戸際に立たされて初めて感情を分かち合えるとは思いもしなかった。
 時任と研究室の仲間だと言う人物が数名、たびたび病室を訪れた。彼らから父の話を聞くたび、小さなボロ屋を飛び出して世界を放浪していた父の見たもの聞いたものが眼前に広がっていく。旅の途中、幾度も死の危機を乗り越えてきた徹治がなぜこんなところで死ななければならないのか、と誰もが口にした。
 死に理由はない。修介のときと同じように、ある日突然やってきて連れ去られてしまう。残されたものは何度も死を見つめ、その意味を見つけようとしながら、やがて訪れる自分の死を受け入れるほかないのだろう。

 看護師が清拭にやってきたので、廊下に出た。朝の病院はどこか明るい空気に満ちている。壁にもたれて、初音に携帯電話の画面を見せる。

「これ、どういうこと?」

 病院に戻ってくる日の前日、彼女が送ってきたメールを見せた。東京に発つ以前は毎日のように高村家にきていたのに、この一週間、仕事が忙しくて疲れているからと言って一度もやってこない。
 確かに顔色が悪く、病院にいるときも立ちくらみする姿を何度も見た。
 画面を凝視したあと、視線をそらして言った。

「どうって、そのままの意味だけど」
「何か俺に原因ある?」