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相思花~王の涙~ 【後編】

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「旦那さま、もう、その話は止めましょう。私がいけなかったのです。つまらない話を持ちだしてしまって。折角、息抜きに来たのですから、もっと愉しいお話をしなくては」
 最近、ハンの顔色が悪いことに、ソナは気付いていた。元々、身体が丈夫ではなく、むしろ病弱な王として知られている永宗である。世子(セジヤ)時代は度々熱を出して寝込み、大妃はそのために真冬に水垢離までして世子の健やかな成長を祈願したという逸話まであった。
 実は今日、ハンに宮殿を出ることを勧めたのはソナであった。ここのところ、ハンは廷臣たちから連日のように、新しい王妃の冊立を迫られていると聞いた。ハンも既に二十五歳、二度も王妃に先立たれており、王子どころか王女すら御子は一人もいない。しかも王が病弱とくれば、廷臣たちがハンの身に何かあった場合に生じる後継者問題に何も言わないはずはなかった。
 廷臣たちの意見は現在、二派に分かれている。一つは最初の王妃の父である現領議政派、新たに国中に禁婚令を出して両班の適齢期の子女の中から三番めの王妃を選ぶというものだ。二つめは兵?判書(ヒヨンジヨパンソ)の金孫基(キム・ソンギ)を主とする一派であり、現在の側室の中から新しい王妃を立てようというものだ。
 キム・ソンギは王の三人の側室の中、崔淑儀の伯父に当たる。崔淑儀の父がソンギの養子にいった実弟なのだ。父親が早くに亡くなったため、ソンギは父代わりとして崔淑儀の面倒を見てきた。我が娘同然の王の側室の中殿(チユンジヨン)冊立をソンギが強く望むのには理由がある。
 だが、王の意はソナ一人にあった。寵愛も関心もすべてはソナが独占していた。そのため、朝廷の臣たちにとって、ソナは目障りな存在であり、若い王がソナ以外の側室はおろか女官に見向きもしないため、ソナを
―玄宗皇帝を惑わした楊貴妃のような稀代の妖婦。
 と陰で悪し様に言ってるのをソナも知っていた。
 幾ら廷臣たちが新しい王妃の話をしても、王は露骨に不機嫌になり、話はいつも
―予は新たな王妃を迎えるつもりはない。
 と、頑なな返事で終わるのだった。
 すると、廷臣たちはまた
―大方はあの妖婦、女狐のシン尚宮が夜毎、寝所でお若い殿下を手練手管を駆使して誑かしているのであろうて。
 と、ソナを悪く言う。中には
―殿下はあのお若さでシン尚宮に出逢うまで女人を一切遠ざけておいでであった。あの後宮嫌いで有名な堅物の殿下をあそこまで惑溺させ、骨抜きにしたのだ。さぞかし閨の中では奔放にふるまうのであろうよ。いや、儂も是非、一度はそのような色香滴る女を抱いてみたいもの。
 などと、好き者らしく下卑た顔で囁く者までいて―。この頃、ソナことシン尚宮は若い国王を誑かす傾国の妖婦として宮殿どころか、都の民たちの間にまで名が知られるようになっていた。つまりは、王のソナへの寵愛がそこまで人眼をはばからず厚いということでもあった。
 ソナにしてみれば、噂は半分は当たっており半分は外れている。側室の身分すらないソナが後宮で生きていくために必要なのは王の寵愛しかなかった。だから、ハンの好むように閨の中では大胆にふるまい、昼間は恋を知ったばかりの少女のように無垢な風を装って見せる。
 そうすれば、ハンの心を掴み続けられると知っているからだ。が、何も皆の噂になっているように、まさか寝所で妖術を使っているとか、清国から妖しげな媚薬を取り寄せて王に盛っているはずもない。中にはソナについて
―?男の精気を吸い尽くす怖ろしき九尾の狐?が美少女に化けて国王の寝所で毎夜、王の精気を吸い取っている。
 などと、馬鹿げた話まで最近はひろがり始めているとか。
 新しい王妃の問題は相当、ハンを悩ませ重圧をかけているらしい。ハンの元々白かった顔は最近、血の気がないのではと思うくらい紙のように白くなった。元々、我意を押し通すことには慣れてない心優しい王であった。
 日々、廷臣たちから中殿問題で責め立てられ、それを突っぱねることもできず、ソナを側室にすらできない状況で苦しんでいるのだ。
「旦那さま、せめて今日くらいは宮殿の中のことはすべてお忘れ下さいませ」
 それはソナの心からの言葉であった。自分の立場を守るためには、ハンに元気であって貰わなければならない。同時に、ソナにとってハンは初恋の大切な男であるという事実も変わらない。
 大切な男が自分のために苦しむのを見るのは、ソナも本意であるはずがないのだ。
「そうだな、折角、そなたと夫婦水入らずで町に出たのだから、愉しまねば」
 ハンが気を取り直しように頷いたその時、すぐ手前で向こうから駆けてきた小さな男の子が転んだ。
 どうやら、母親の手を振り切って走ってきたらしい。盛大な泣き声を上げるその子の側に、ソナは近寄った。
「大丈夫?」
 ソナはしゃがみ込んで男の子と眼を合わせた。袋からまだ温かな饅頭を一つ取り出して、男の子に見せる。
「これを上げるから、泣かないで」
 五歳ほどのその子は現金なもので、饅頭を見るとふっつりと泣き止んだ。そこに慌てて後を追ってきた若い母親がやってくる。
「まあ、奥さま、申し訳ございません。倅がとんだご迷惑をおかけしまして」
 朝鮮は身分差のはっきりとした社会である。粗末なチマチョゴリを着た二十代初めほどの母親は、ひとめで上流両班の若夫人と知れるソナに恐縮して頭を下げた。
 ソナは優しく笑った。
「良いのよ、子どもが泣くのは当たり前だもの」
 ソナはよいしょと男の子を抱き上げた。
「これからはお母さんと一緒に歩かなきゃ駄目よ」
 子どもの大きな頭がこっくりとし、母親は幾度も頭を下げ、子どもを連れ人波に紛れていった。その姿を見送っていると、ハンが笑いを含んだ声で言う。
「そなたが男の世話だけでなく子どもの世話にも長けているのは知らなかった」
 ソナは上目遣いにハンを睨んだ。
「それは、どういう意味ですか? 旦那さままで、私が男を誑かす妖術使いだとでも?」
 ソナは瞳に涙を浮かべて、ハンを見つめた。
「殿方の心を蕩かす手管など、私は知りません。いっそ私の方が知りたいと思うくらいです。そうすれば、旦那さまのお心をずっと私の許に繋ぎ止めておけますから。でも、私はそんなすべは知らない。いずれ、旦那さまのお心が私から離れていくのを待つしかないのに、そんな私に旦那さまは残酷なことをおっしゃるのですね」
 眼から大粒の涙を零すソナを見て、ハンは大いに狼狽えた。
「いや、す、済まぬ。私が悪かった。軽い冗談で言っただけなのだが。まさか、そなたが泣くとは」
 ハンは袖から手巾を取り出し、ソナの涙を丁寧に拭ってやった。
「人眼がなければ唇を使えるが、流石にここではできぬゆえな」
 意味深な科白を囁き、ソナに手巾を見せた。
「ご覧、これはそなたが私に真心の証としてくれたものだ」
 ソナが泣き止んだ。まじまじと手巾を見つめる。薄紅色の手巾に白い百合の刺繍がソナ自身の手によって施されたものだ。
 ハンが感慨深げに言った。
「この手巾と薬の器を取り替えた日のことをそなたは憶えているか?」
 ソナはすぐに頷いた。