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相思花~王の涙~ 【後編】

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  昼間の密会

 涼やかな風が優しく頬を撫でて通り過ぎてゆく。ソナはそのひんやりとした風の心地良さに思わずホッと小さな息をつく。残暑がまだ日中は依然として厳しいものの、時折、吹く風は既に秋の気配を孕んでいる。
 ハンと出逢ったのはまだ五月、夏にもならぬ初夏の頃だった。あれから月日は流れ、暑い夏を越し、都漢陽(ハニャン)ははや秋を迎えようとしている。
 郊外の山々は日毎に澄む大気にくっきりと立ち上がり、夏の終わりを惜しむかのように気ぜわしく啼く蜩(ひぐらし)の声がどこか寂寥感を漂わせていた。
「やはり、堅苦しい宮殿暮らしを続けていると、息が詰まる。たまには息抜きがなくてはならぬな」
 ハンは独りごち、傍らに寄り添うソナを優しい眼で見つめる。ソナは白い頬を心もち上気させ、かすかに頷いた。どれだけの夜を共に過ごし、幾度身体を重ねようと、初夜に見せたような恥じらいをハンが好むのは知っている。
 申仙娥(シン・ソナ)はつい四ヶ月前、つまりハンと出逢うまでは、宮殿で水汲み(ムスリ)をしていた。後宮仕えといえば聞こえは良いけれど、要するに最下級の雑用係である。しかし、ソナの恋人李翰(イ・ハン)は最初は国王に仕える内官であったはずなのに、何と正体を偽っていた国王その人だったのである。
 今ではソナは晴れて国王の想い人として自他共に認められ、特別尚宮の待遇を与えられていた。
「ソナ、あちらに装飾品を商う店があるぞ、行ってみない―」
 ハンが言う前に、ソナが歓声を上げた。
「殿下(チヨナー)、美味しそうな匂いがします」
 ソナは叫ぶと、これは満更、演技だけではなく大きな黒い瞳を輝かせた。隣のハンがやれやれと肩を竦める。
「おい、年頃の娘なら、食い気だけじゃなく色気の方も出さねば」
 ソナは笑顔で首を振る。
「色気などなくてもこの世は生きてゆけますが、食い気を失っては人は死んでしまいます」
 言うなり、ハンを残して駆け出していった。
「閨の中とはまるで別人だ」
 ハンは唸ると、ゆっくりと首を振る。ややあって、その顔が笑み崩れた。
「だが、昼と夜の顔が違うところがまた良いし、可愛いんだな」
 と、毎朝の便殿(ピョンジョン)での廷臣たちとの御前会議では到底見せられぬ緩みきった顔で呟く。
「殿下、殿下、こちらです」
 可愛い顔で手を振るソナに、ハンの顔は締まりなく緩みっ放しだ。
「ソナ、だが、その殿下と呼ぶのはいかにもここではまずくないか?」
 今日、ハンとソナはお忍びで漢陽の町に出てきた。?民情視察?と称して時折身をやつして町に出るハンに伴われ、ソナも行動を共にすることはよくある。もちろん、言葉どおり、民の真の姿や暮らしぶりを王として知りたいというハンの気持ちもあるのは確かだが、ほんの少しは宮殿から離れて息抜きをしたいという本音が混じっていることも知っている。
 幾ら両班の若夫婦らしく見えるようななりをしているとはいえ、ハンの生まれ持った気品はその艶やかな美男ぶりを更に際立たせている。本物の宝石をどこに隠してもその高貴さとまばゆい光を失わないように、ハンの優美さはどこまで変装したとしても隠しようがないのだ。
 現に、薄紫のパジを纏い、鐔広の帽子を被ったハンは道行く人の中でも人眼を引いていた。派手やかに着飾った明らかに妓生らしい女たちの二人連れが向こうから歩いてきて、しきりにハンの方に秋波を送っている。だが、当のハンは妓生たちには眼もくれず、ソナの姿ばかり追っていた。
 そこまで存在感があるハンにやはり、?殿下?と正体が露見するような呼びかけはふさわしくない。ハン本人から言われ、ソナは我が身の迂闊さを悔いた。
「申し訳ありません。私が浅はかでした」
 素直に謝ったソナに、ハンは笑ってソナの黒髪をくしゃくしゃと撫で回した。
「構わぬ。それでは、そなたは私を何と呼ぶ?」
「そうですね、いつも町に出たときのようにやはり?旦那さま(ソバニム)?と、お呼びしようかと思います」
「なるほど。それにしても、そなたに?旦那さま?と呼ばれるのは嬉しいものだ」
 ハンは少しだけ照れたように笑った。ソナも笑顔でハンを見上げる。背が高いハンと小柄なソナではこうして見上げるような体勢になってしまうのはいつものことだ。
「それでは旦那さま、この蒸し饅頭をお一つ、どうぞ」
 ハンが来るまでに既に露店で蒸し饅頭を買ったらしいソナは紙袋から一つ、饅頭を取り出した。
「おお、気が利くな」
 ハンはまだ湯気の立ち上る饅頭を早速頬張った。ハンが眼を見開く。
「そなたは食べぬのか?」
 ソナは微笑んだ。
「旦那さまが美味しそうに召し上がる姿を見る方が自分が食べるより嬉しいのです」
「可愛いことを言うヤツだ」
 ハンは食べかけの饅頭をソナの前に差し出す。ソナが窺うように見るのに、ハンが頷き、ソナは差し出された饅頭をひと口囓った。
「美味しい」
 二人は顔を見合わせ、微笑み合う。ソナはハンの腕に自らの腕を絡め、二人は通りにひしめく様々な露店を眺めつつまたゆっくりと歩き出した。
「旦那さま、私は幸せです」
「私も最高に幸せだ。人生にとって、女の存在がこんなにも心を満たしてくれるなぞ、そなたに出逢うまで考えたこともなかったよ」
 ハンが斜向かいに店を出している小間物屋を指した。
「あそこに小間物屋がある。ノリゲでも簪でも、欲しいものがあれば言いなさい」
 指した方向には、確かに女性の歓びそうな装身具ばかりを商う店があった。町の露店ににしては品の良い品揃えで、若い娘たちや中年の女房が店の前で品を物色している。
 ソナは首を振った。
「そのようなものは要りません」
「しかし、そなたは欲のないおなごだな。宮殿にいるときでも、身に付ける物一つ欲しがったことはない。大抵の女は寵愛を得ると我が物顔にねだり事をしてくるものだが」
 ハンが唸ると、ソナは少し哀しげに言った。
「そのようなことはおっしゃらないで下さい。他のお妃さま方と殿下が共にお過ごしになっているところを想像してしまいます」
 それから、あっと手を口に当てた。
「申し訳ございません。嫉妬など醜く、旦那さまに嫌われてしまうかもしれないのに」
 悄然とするソナをハンは今すぐ人眼がなければ強く抱きしめたくなる衝動に駆られる。それを彼が必死に抑えているのをソナは知って知らずか、呟く。
「私は指輪もノリゲも簪も何も欲しくはないのです。ただ、殿下が約束を守って下されば」
 そのひと言に、ハンがハッとしたような表情になった。
「もちろんだ。約束は必ず守る。―済まぬ、ソナ。そなたをいつまでも今の立場のままにしておくことについて、私も何も考えていないわけではないのだ」
 ソナは淋しげに微笑んだ。
「良いのです。私は平民の生まれで、両班の姫君ではありません。長らく旦那さまにお仕えしてこられたご側室方とは異なり、身分が低いのです。そんな私を大妃さま(テービマーマ)が側室と認めて下さらないのも仕方ないのことですわ」
 ハンが溜息をついた。
「私は男としても王としても不甲斐ないな。そなたをいずれ王妃にすると約束したのに、いまだに側室にすらできずにいる」
 ハンの端正な顔が曇った。ソナは慌ててハンの腕に絡めた腕を引っ張った。