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Lick

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リック


私が初めて彼女の家に行った時のことだ。
ペットがいた。
艶やかな黒と白の毛並み、シャンプーの匂いがする雄のビーグル犬だった。
家の中で飼っているのだ。
デートの時いろいろ話をしたけれど、犬の話はしたことが無かった。
そういえば、彼女のスマホは、確か犬の飾りが付いていた。
彼女の赤い車のルームミラーにも、小さな犬の縫いぐるみが飾ってあった。

彼女の家の玄関に入ると、嬉しそうに犬が彼女に飛び付く。初めての来客の私なのに全く見向きもしない。
(こりゃー、番犬にはならないな)と私は思った。
彼女は真っ白なミニスカートのまま片膝を立て、さかんに尾を振る犬に話しかける。
「この人、大切なお友達よ!」
犬は、私に一瞥もくれず、彼女の言葉を遮るように、ペロペロと彼女の可愛い口元や頬や首を舐める。
眼を細めて、くすぐったそうに顔を揺らす彼女。
私は犬のはずの『彼』に嫉妬と不安を感じた。
まだ彼女にキスすらしたことが無かったのだ。

キッチンの横の、小さなスチール椅子に腰をかけると、彼女がドリップコーヒーを出してくれた。
私の好物のホットコーヒー、香ばしいかおりが立ちこめる。
桜も咲き始めた麗らかな陽気。
これから二人きりの楽しいひと時が始まるはずだった。

犬は窓際で飼い主の方を見ている。
彼女は犬に背を向けて私と話すので、犬の姿は見えない。
話好きな彼女のお喋りを、笑顔で聴く私。

暫くして彼女が席を立った時、ふと私は犬を見た。
犬と視線が合った気がした。
犬はお座りの姿を崩し、前足を投げだし横座りになった。
そして赤い舌で腹のあたりから舐めはじめた。ピタピタと念入りに舐めた。尻尾の黒い根元が彼の唾液で光っている。

「リック!おいで」彼女が犬を呼んだ。
緋色の絨毯に座り込んで、白い指先でつまんだクッキーを与える彼女。
彼女の歯形が残ったそれは私に出されたものと同じものだった。
犬は忙しなく尾を振り、与えられたクッキーより先に、彼女の紅い唇を舐め回した。
彼女はそれを嬉しそうにのけ反るだけで、制止しようとはしなかった。

ペロペロ、ペロペロと音がする。


「コーヒーのお代りどう?」

「・・・もう、い、いいです。すみません・・・」

急に堅い言葉使いになった私。
まるで初めて彼女に出会ったあの時のようだった。
けれど戸惑いは明らかに違っていた。
犬好きの私が、一度しか犬に触れなかったのだ。

私がリック(Lick)と言う英語の意味を知ったのは
その後のことだった。
作品名:Lick 作家名:桜田桂馬