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みやこたまち
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退空哩遁走(同人坩堝撫子3)

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一 ストーカー



 どこまで走っても光は見えない。
「戻るわよ!」という号令に飛び上がり、来た道を一目散に駆けだした男に名前は無い。無論、無いといってもあるに決まっている。だがその名前に意味は無い、という意味で、無いのである。
 
 いつもの電車に乗らないで、女の電車に乗り込んだ。その時に、男は家を失い、家族を失い、地位や名誉を失った。その時である。男が名前をも失っていた事に気づいたのは。
 いや、気付きさえしなかったかもしれない。男はストーカーとして生まれ直したのだ。
 それから何年が過ぎたのか分からない。男はいつでも女を見ており、声を聞いており、時おりは匂いを嗅いだ。女が眠っている時には眠っている女を見ていた。遠くから、近くから、男は女を貪りつづけた。 男は写真を撮ったり、ビデオを回したりはしなかった。盗聴も、ゴミ漁りの記録も取らなかった。男の時間は全て、女の時間なのであり、男の存在は女の存在に含まれていなければならなかった。含まれる、というのは語弊を招く言い方だったかもしれない。男の存在は女を見ているその限りにおいてあるのである。そして、女を離れて男が存在することができない以上、映像などの過去の虚像にかまけている暇はなかったのである。
 ストーキングする主体として男があるのではない。ストーキング自体が男なのである。だから、ストーキングの記録などありえなかったし、目の前の女は幾年も追いつづけた女であると同時に、常に新しい女であった。
 ただ一つ、男が恐れていたのは、女の変質だ。
 それは男を意識した瞬間に起こるだろう。男は何よりも、自分を知られる事を恐れていた。なぜならば、その時男は女にとって明確な他人と意識されるはずだったからである。そして女の意識に男の存在を見る事は、男自身を見ることに他ならなくなるはずだったからであった。女が男によって歪められ、歪められた自分をストーキングし続けなければならなくなったら、自分は存在してはいられないのだ。女にとって自分はこの世界に存在しない人間でなくてはならない。
 放し飼いにして観察する、という高慢な気持ちは微塵もない。
 女は男を知らず、男は女を知っている。この非対称性を、男の優位と勘違いするそこいらのストーカー紛いの変質者と一線を画すのは、この一点に尽きるといってよかった。
 今、女を見失ってなお走りつづける男にとって、トンネル内が漆黒の闇であることなど何の問題でも無かった。何故なら、男は女を見る目しか持っていなかったからである。女のいない視界に、たとえ光があったとしても、男には何も見えないのと同じであった。
 こんなに長い間、女を見ないで過ごすのは初めてだった。しかし、今立ち止まる事は出来ない。彼女に追いつかれてしまったら、男は彼女を失い自分を失うからである。

 入った時よりも長く入りくんだトンネルを逆走する男の、コートや靴、サングラスや帽子は、千切れ飛んでいく。次から次へと、何かが鋭い刃をつきたてるせいだ。こんなことはこれまでにも二度や三度ではない。何か不思議な力をあの女は持っていて、自分がこんな男になったのも、もとはといえば、あの女が誘ったせいなのかもしれないと考えられない事もない。だがその誘いは、なんと素晴らしいものだっただろう。男は女によって自らの生きる意義を見いだし、男の自発的な意思が、女を求めているのであった。
 その、常に女を追いつづけていた男が、必死で女から逃げていた。いや、既に女が追ってくることは無いだろうと、男は気づいていたかもしれない。トンネルを抜けたら、つきものが落ちたかのように立ち止まり、また、とぼとぼと、女の痕跡を追って歩みはじめることが出来るだろうと思っている。この状況が一変してくれさえしたら、立ち止まるきっかけが出来るのだ。
 真っ暗なトンネルのそこここに、入った時には気づかなかった脇道との分岐杭がたち現れた。その路地だけがぼんやりと明るく、それが脇道だと知れるのだ。男はその道を気まぐれに曲がったり、曲がらなかったりして走っていた。何故、この角を曲がるのか、さっきの角を曲がらないのか、分からなかった。男はそれでも走りつづけ、気まぐれに角を曲がりつづけた。単調だが気を許せば致命傷になるであろうと思われる攻撃は、飽くこと無く続いた。既にズボンの裾は裂け、靴は失われていた。耳からは血が流れており、ワイシャツはかぎ裂きだらけだった。それでも走り続ける。
 男はこのスピードでここまで進んできた。現実とはこのスピードのことであった。だからこのスピードを失ったら、おそらく進むことが出来なくなる、と本能的な恐怖が呼びかけていたからだった。迷うのと同じスピードで脱出するしかなかった。女から遠ざかっているのか、近づきつつあるのか分からない。だが、振り返っても女の姿は無いという事だけは、確信していた。
 追われた犬のようだと男は思った。羹に懲りて膾を吹くようだと男は思った。
 男は、自分がこの辺り一帯の悪しき物を一手に引受けたお陰で、里見が般若湯村雨へ入れたのだという事実を知らない。里見が「露払い」といったのがまさにこの男の事だったのである。さらに男は里見にとってたんなる捨駒に過ぎなかった。今までで一番長く里見に付いたストーカーだったが、唯一無二では無かった。そんな事実を知らない。また知りたいとも思わない男は今、再び女を視界に収める事だけを求めて走り続けていた。