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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 1~3

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2.グロウ・イン・ザ・ダーク



 ライブの翌日は快晴だった。

 要はリビングのソファからむっくりと体を起こす。南向きの窓ガラスから日差しが降りそそぎ、年中開けっ放しのカーテンが風に揺れている。扉の壊れた鳩時計が十二時をさしている。

 大きなあくびをして頭をかいた。上半身は何も着ていない。立ち上がるとジーンズがずり下がった。足元に小さな星型のピアスがおちている。

 芽衣菜とは、インディーズデビューをしてからの付き合いだ。会うのはバンドがらみの用事ばかりで、いわゆるデートというものをしたことはない。芽衣菜には他に本命の男がいるようだし、お互い私生活に口出しすることはまずなかった。

 かがんでピアスをつまみあげると、ギターケースの中に放りこんだ。
水道の蛇口をひねってグラスに水をつぐ。シンクには汚れた食器が山積みになっている。

 冷蔵庫を開けてみたがたいしたものは入っていない。使いかけのマーガリンと味噌、マヨネーズにケチャップ、数日前に買ったビール、修介が置いていったナスの漬物。
 タッパーを取り出してにおいをかぎ、漬物を口の中にほうりこんだ。

 ジーンズを脱ぎ捨て、トランクス一枚の姿で廊下に出て風呂場にむかう。古くて底の抜け落ちそうな床板がぎしぎしと音を立てる。

 父と最後に会話したのはいつだったか、とシャワーを浴びながら考える。

 昨日の朝、家を出る直前にリビングで煙草を吸っている横顔を確認した。会話はしていない。廊下に山積みにされた学術書をひっくり返していったらしく、そこら中にほこりが散乱していた。父が旅行に出るときに使う巨大なリュックサックと泥だらけのトレッキングシューズも姿を消していた。

 父の徹治は海洋生物学の研究をしている。要をほったらかして家を空けることは今に始まったことではない。研究に没頭すると息子の存在すら忘れてしまうような人だ。当面食いつなげる分の金だけおいて、さっさと旅に出てしまう。いつも居場所を知らせないので金がきれても連絡のしようがなかった。

 あるとき空腹に耐えられず父が出入りしている大学の研究室にむかうと、父の学友である時任三郎が、要の栄養状態を見かねて自宅に連れ帰ってくれた。しかし彼の年老いた母が口うるさい人で、始終、息子や要の父の悪口を言ってくるので、たまらなくなって翌朝には飛び出してしまった。

 あんな孤独でひもじい思いは二度としたくないと、父を恨みながら生きてきた。

 自宅の二階にはなぜか古びたアップライトピアノとギターがあった。父が弾いているところなど見たことがないのに、古道具のようにいつも同じ場所に佇んでいた。

 暇に任せて弾くうちに、ピアノはさほど上達しなかったが、ギターはしだいに手になじむようになった。楽器屋に持ち込み、なけなしの金をはたいて弦を張りかえてもらった。

 ここにたどり着くまで紆余曲折はあったが、バックバンドのメンバーに修介、芽衣菜、晃太郎を加えるうちに、確かな手ごたえをつかんでいた。

 二週間前、初音のピアノを聞いたときの衝撃は、何にもたとえようがない。ライブ映像を見ただけで、足りないのはこれだ、と核心を得たが、彼女の家の真下で聞いた生演奏はその思いをはるかに凌駕するものだった。

 初音が弾くあの曲は、とめどなく葉を茂らせたり花を咲かせたりする変幻自在の植物のようだった。聞くだけでは物足りない、ギターを持ってあの中にとびこみたい、そう考え始めるともう自分を止められなくなった。

 昨夜、打ち上げにも参加せず帰ろうとしていた初音を引きとめていると、晃太郎が割りこんできた。ひとしきり悪態をついたあと、もう一度演奏を聞かせろと言い出したのだ。

 このままじゃ気がおさまらない、あれは本領じゃないだろ、としつこく食い下がる。

 最後には「今あいてるスタジオを探せ」と修介に言い出す始末で、要はあわてて初音を解放した。

 練習中は澄み切った青空に伸びる常緑樹のようだったピアノ演奏が、なぜ本番になってひどい失態を見せたのか――打ち上げの場でぼんやりと考えていると、一気飲みのコールがかかり、勢いで酒をあおった。

 つがれるままに酒を飲み、絡みついてきた芽衣菜の相手をしているうちに意識が朦朧としてきた。そこからはどうやって家に帰ってきたのかもおぼえていない。

 シャワーの栓をかたくしめて風呂場を出る。山積みになった洗濯物の中からバスタオルだけを抜き出した。

 濡れた髪のまま家の外に出ると、心地よい風が吹いていた。
 ふり返って玄関先を眺める。ぴたりと閉まらない引き戸、飛び石が抜け落ちている石畳、赤黒い錆の浮いている柵。父が手入れをしたことは一度もない。大型の台風でも直撃すれば土台もろとも吹き飛びそうなボロ屋だ。



 初音が住んでいる公団住宅は、偶然にも同じ市内にあった。どこかですれ違ったことがあるかもしれない、と思うほど、要の行動範囲に収まっていた。
車を二十分ほど走らせ、目的の棟の三階にある窓を見上げる。

 ピアノの音が聞こえてきた。昨日の野外ライブで弾いたあの曲だ。要のアドリブが織りこまれている。初音の腕が三本に増えているのではないかと思うほど細かいフレーズが正確に再現されていく。

 ため息がもれる。一瞬で過ぎさっていく風のような音の連なりも、初音の手にかかれば目映いほどのきらめきを放つ。夜空をかけぬけていく流星にも似ている。姿を失っても美しい余韻が心の中にうつしだされる。

 階段を登りはじめると音がやんでしまった。前回と同じタイミングだ。

 インターフォンを鳴らしてみるが、応答がない。こげ茶に塗られた扉を叩いてみたが、それでも反応がなかった。

 しばらく待って帰ろうとしたところ、鍵がガチャリと音を立てた。チェーンロックのすき間から顔を見せたのは薄化粧をした初音だった。

「また来たんですか」
「打ち上げに行かずに帰っちゃっただろ。昨日のお礼に飯でもどうかと思ってさ」
「あんな演奏になってしまったんだから、お礼なんていいです」

 扉が閉まりそうになったので、要はあわてて腕をさしこんだ。

「もしかしたら俺にも原因があったのかなーって考えたんだけどさ。ほらこれ」

 要はカーゴパンツのポケットから小型の音楽再生機を取り出してみせた。

「昨日の演奏を録音したやつ。ピアノだけでも十分なのに、俺がでしゃばりすぎてやりにくかったとか、そんなことない?」
「原因は私です。本当にごめんなさい」
「なんであやまるの? この曲、すごく反響あったんだよ。俺が作った新曲なのか、タイトルは何なのか、教えてくれって。はっちゃんが作曲したの?」

 初音の瞳が丸く見開かれた。腕から力が抜けていく。

「作ったのは私の父です。タイトルは……ないんです」

 二人のあいだにあった張りつめた空気が緩んで、部屋の奥からやわからなにおいが漂ってきた。母親のいる家庭の暖かな香りだった。

 初音の肩に手をおいて、要は言った。

「飯でも食いながらその話をしようよ。タイトルも決めて、曲を完成させよう」
「またそんな勝手なこと」
「さっき新しいアレンジで弾いてただろ。俺のギターのフレーズが組み込まれてた。あんなの聴いて、おとなしく帰れるやつはいないよ」