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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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紫音の夜 10~11(最終話)

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 息を切らせながらかけよっていくと、伶次はゆっくりと顔を上げた。

 やわらかい冬の日差しが伶次の痛んだ皮膚を温める。
 葉月に気がつくと眩しそうに微笑んだ。

「腹減ったな。なんか買ってくか」

 言われるままにコンビニに立ちよったあと、大学から駅までの通学路から離れた小道に入った。
 古い住宅が密集する中に、ぽつんと小さな公園がある。

「ここ、穴場なんだ。大学の連中もめったに姿を見せないよ」

 伶次はそう言いながらベンチに腰かけた。
 となりにギターケースを置いて息をつく。

「ギターの練習してたんですか?」
「再来週の土曜に兄貴の追悼ライブをやるんだ。それで、俺が兄貴の代わりにギターと歌をやって、当時のメンバーで再結成しようって話になって……。歌はかんべんしてくれって言ったけど、声が似てるし、いいじゃんって吉川さんが言うからさ」

 喉が焼けつきそうになった時、水をついでくれた姿が目に浮かぶ。

「そんな大事なことを忘れるなんて、ほんとどうかしてたよ」

 黒髪が風に揺れる。瞳はまだ色を失ったままだったが、肩の力が少し抜けているようだった。
 常緑樹のざわめきの中から、『オール・オブ・ミー』が聴こえる。
 よくのびる優しい歌声、胸を震わせるテナーサックスのカウンターメロディ――CDをもらってから何度も聞いたライブ演奏の中に、伶次の理想があるのかもしれないと思った。

 伶次はギターケースを開けて、レスポールのエレキギターを見つめた。
 内ポケットの中から、黄ばんだ紙を取り出す。
 そこには日付とライブの演目がメモされていた。
 つづられたアルファベットは伶次の字ではなかった。

「兄貴が事故にあって死んだあと、実現できなかったライブがあるんだ。高木さんも吉川さんも出るはずだったけど、みんな憔悴しちゃって、ライブどころじゃなかった。兄貴が生きてればやるはずだったそのライブを、やっと再現することになったんだ。来年の今頃には俺も高木さんも日本にいないから、いい機会だって」

 葉月は目を見開いた。

「高木さんも……ですか?」
「年内のライブが終わったら、すぐにでも渡米するって言ってたよ」

 きっとこれが最後になる――真夜の言葉が腑に落ちた。

「さみしい?」

 そう言って笑って見せた伶次の方が寂しそうに見えた。

 コンビニで買ったおにぎりやサンドイッチを食べたあと、伶次は何やら鼻歌を歌っていた。
 ギターで練習している曲なのだろうか。
 節回しからジャズの4ビートだとわかったが、曲名を思い出せるほど、はっきりと聞き取れなかった。

 冷たい風が葉月の指先を冷やし、伶次の傷ついた肌を優しくなでていく。
 首の赤みは引いていたが、乾燥してはがれた皮膚のかけらが、ショートコートの襟もとに落ちていた。

「体の調子はどうですか?」

 伶次は首を上げて皮膚を引っぱった。

「子供の頃に首の皮膚がほとんど剥けてしまったから、ここだけ再生能力が異常に高いんだ。ほら、皮が余ってるだろ。あとはそうだな、胸とか腕の内側はあんまりかな」

 ショートコートを脱いで、シャツの袖をまくり上げる。
 白い肌に赤い発疹が浮かび上がっている。
 薬を塗っているのか、不自然に白くなっているところもあった。

「痛そうですね」
「まあ、いつもこんなもんだよ」

 袖を下ろすのを見ながら、葉月は意を決して、高木に頼まれていた話題にふれた。

「あの、鞍石さん……煙草を吸ってるんですか?」
「……なんで?」

 葉月の目を見たまま、ショートコートをはおった。
 こういうときも、伶次は目をそらさない。
 気を抜くと、自分自身が彼の空気に飲まれてしまう。

「高木さんが、やってるんじゃないかって」
「……まったく。かなわないなあ、あの人には」

 伶次はおどけてお手上げのポーズを取り、視線を空へ逃した。
 核心をはぐらかそうとする気配を感じとり、葉月はつめよって言った。

「やってるんですか?」
「う……ん。まあね。でも毎日じゃないよ」
「とにかく吸ってるんですよね。どうしてですか」

 さらにつめよると、伶次は顔をそむけた。風に浮く黒髪をいじっている。
 伶次は答えない。彼の言葉を聞くまで引きさがるつもりはなかった。

 しばらくして伶次は大きなため息をつき、腕をさすりながら言った。

「気が変になるほど、痒みがおさまらない時があるんだ。そうすると、こう、コンパスとかそこらにあるもので、痒いところをギィーって引っ掻きたくなる。そういう時に煙草を吸うと、少し気が落ち着くんだ。それだけのことだよ。無意識に引っ掻いてるときもあって、こんなだけど」

 伶次は手の甲を見つめた。いつ見ても知らない傷が増えている。
 白い手の上に浮かぶ青い痣が痛々しかった。

「それはどうしたんですか?」
「うーん……明け方、咳がとまらなかったから、壁にでもぶつけたのかな」

 伶次は手のひらをふって見せた。
 喉を傷めて以来、このつらさを分かちあえる相手はいないと思っていたが、
伶次は葉月よりもずっと長い間、孤独な痛みを抱えながら生きてきたのだ。
 そう思うと、気軽には「煙草をやめてください」とは言えなかった。

 痣を見つめながら言葉につまっていると、伶次が顔をのぞきこんできた。

「俺のこと、心配してくれてるの?」
「当たり前でしょう。死んじゃったらどうするんですか」

 葉月はありったけの声を上げた。
 情けなくかすれる声しかでなかったが、顔のすぐ近くで語気を強くしてしまったので、伶次はうしろにのけぞった。

 死という言葉が全身に痛みを走らせる。涙がにじみ出してくる。
 祥太郎の話を聞いて以来、死はすぐそばにあるものだと、思わずにいられなかった。

 目じりをこすってから謝ると、伶次は笑った。
 ここ数日見せなかった明るい笑顔だった。

「煙草ぐらいで死にはしないけど、葉月が心配するなら、もうやめるよ」
「本当ですか?」

 再び裏返った声を出すと、伶次はベンチに背をもたせかけて言った。

「真夜の心配をして、俺の心配までして、それじゃいつまでたっても喉が治らないよな」

 伶次は葉月の首に手をかざした。手のひらの熱が空気を通して伝わってくる。

「今日はずいぶんマシみたいだけど、少しは治ったのか?」
「咳はおさまりました。あの……もし喉が治らなかったら、テナーサックスで出たいんです。真夜にもそう言われて、書きかえた譜面ももらったんですけど」

 真夜から受け取った譜面をさし出しながら、自分から伶次に何かを頼むのは初めてだと思った。

「だめだ、そんなの」

 伶次は葉月をのぞきこんでそう言った。
 視線が胸の底まで突き抜けていく心地がした。

「逃げるようなことを言ってたら、絶対治らない。吹きたいなら、歌もテナーサックスもどっちもやるって言いな」
「吹いても……いいんですか」
「真夜に頼まれたんだろ? あいつがその方がいい演奏できるっていうなら、構わないよ。ただ葉月の負担は増えるけど」
「あの、鞍石さんに負担がかかるってことはないですか……」