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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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紫音の夜 7~9

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9.欲求



 五日間にわたる学祭が終わり、大学が元の静けさを取り戻した頃、真夜はまた坂道を転がるように音の質を落としていった。

 ピッチが悪く、同じ失敗をくりかえす。
 すぐにフレーズを忘れてしまう。リズムがずれると元に戻れなくなる。
 集中力もない。

 薬に手を出しているのは明らかだった。
 葉月が何度やめるように忠告しても、約束はその場だけだった。
 口を右下に引きのばす癖はより頻繁になって葉月を苛立たせた。

 葉月の喉も、日ごとに悪くなっていく。
 今日は昨日よりも、明日はおそらく今日よりも悪くなっていくという不安に常にさいなまれていた。

 医者は伶次と同じことしか言わなかった。
 炎症をおこしているからあまり声を出さないようにと表情も変えずに言った。

 忠告を守っているつもりだったが、声を出さないでいるとますます出なくなっていった。
 喉を使えば治らないかもしれないが、使わないまま歌えなくなったらどうするのか――矛盾した焦燥感がじわじわと葉月をしめつけていった。

 真夜はどうして薬をやめないのか――その原因もつかめないでいた。
 やめれば元の調子を取り戻せるのに、なぜ自ら音質を落としていくのだろう。
 薬に何を求めているのだろうか。
 背筋を震わせる音色はもう聞けないのだろうか。

 人気のない生協裏のベンチでひとり座っていると、とめどなく思考があふれ出た。
 枯れ落ちた葉が葉月のショートブーツをなでていく。
 回収し損ねた学祭のチラシが柱にはられたままになっている。
 夕日が西の空に傾いている。
 ロングTシャツ一枚で外に出てきたため、じっとしていると体が冷えてきた。

 ホットミルクティーの空き缶をくず入れに投げ込む。
 乾いた音が響きわたる。首からかけたストラップを見つめて、息を吐いた。

 喉の痛みが消えない今、自分にできることはテナーサックスを吹くことだけだった。

 第五スタジオの前で伶次がウッドベースを抱えている。
 学祭を終えて以来、誰もが気付くほど神経を張りつめていた。
 部員が声をかけても挨拶以外の会話をしない。
 ウッドベースをかまえると周囲の空気を一切遮断して、弾くことに没頭していた。

 葉月が前を通りかかると、空のペットボトルを激しく壁に投げつけていた。

 体をかたくして彼を見ると、そこに葉月がいることにようやく気づいた様子でウッドベースを廊下に寝かせた。

「ごめん。当たらなかったか」

 少し冷静さを取り戻した表情でペットボトルを拾いあげた。
 背中を丸め、そのまま廊下に座りこんだ。
 手の甲に見覚えのない傷があった。

 彼は何も口にしないけれど、苛立ちの原因の半分は自分と真夜にある、と葉月は考えていた。
 しかしそんな考えを抱いても物事は何一つ好転せず、咳が止まらなくなるだけだった。



 コズミック本番まで十日を切った日、伶次の苛立ちが頂点に達した。

 相変わらず真夜は薬をやめず、目の下に隈を刻みこんでスタジオにやってきた。
 立っているのもつらそうな状態だ。練習中も集中力が全くなく、伶次や高木の話を半分も聞いていなかった。

 当然、要求されたことができない。
 それどころか、この日までに完成させてきた部分もできなくなっていた。
 もう一度、もう一度と吹こうとするが、やり直しのたびに別のミスを重ねてしまう。
 見ているのがつらかった。

 伶次は真夜を責めず、辛抱強くアドバイスをくりかえしたが、真夜は応えられなかった。

 一時間ほど練習が続き、修正の仕様もないほど演奏が崩壊すると、伶次はウッドベースを弾く手をとめてしまった。

「やめだ」

 真夜も高木も演奏をやめて伶次を見た。
 ウッドベースを抱えたまま譜面を片づけようとしている。
 真夜の顔にあせりの色が浮かぶ。譜面台をよけて一歩、伶次に歩みよった。

「すいません。ちゃんとやりますから」
「もういい。これ以上やったって無駄だ」

 伶次は真夜を見ずに、ウッドベースを横倒しにした。
 アンプのつまみをひねってシールドを引き抜く。
 真夜が唖然としている間に、ベースのブリッジに取り付けたシールドも抜き、手早く束ねた。
 真夜はさらに近づいて伶次の腕をつかんだ。

「ごめんなさい。次はできます。帰らないでください」
「おまえがそんな状態で、これ以上続けることに何の意味がある?」

 そう言い放って真夜の手をふりはらった。
 本気で帰ろうとしているようだった。

 葉月はどうすることもできず、ただ立って、こみ上げてくる喉の疼きをこらえていた。
 真夜は首からアルトサックスをぶら下げたまま、呆然と伶次の動きを見ていた。

「伶次、次の練習はいつだ」

 それまで黙っていた高木が低い声を響かせた。
 ベースのソフトケースを引きずってきた伶次が顔をあげて言った。

「コズミックの本番まで、スタジオは毎日取ってあります」

「そうか、じゃあ明日の練習はなしだ。おまえら明日一日、自分の楽器にさわるなよ。少しでもさわったら俺はコズミックを辞退するからな」
「な……」

 伶次と真夜が同時に声を出した。
 その先は言葉にならず、顔を見あわせて突っ立っている。
 高木は平然とした様子で立ち上がり、ドラム周辺に置いたスティックをかき集めた。

「一日休んで、頭を冷やせ」
「何言ってるんですか。もう十日もないんですよ。このままでも危ないのに」

 伶次が声を荒げても高木は反応しなかった。
 長身を曲げて床に置いたスティックケースを拾いあげる。
 ちらりと真夜を見たあと、伶次に視線を移した。

「こんな状態でコズミックにでるつもりか。俺はごめんだね。おまえだって相当リズム感が狂ってるんだ。そんなことにも気づいてないんだろ?」

 伶次は息を飲んでうつむいた。葉月は喉を押さえこんだ。
 咳をしたい衝動がすぐそこまで来ている。
 かゆみと痛みが口腔の奥で暴れまわり、平常心をかき乱す。

「明日は休め。いいな」

 高木はそう言い残してスタジオをあとにした。
 取り残された三人は黙って立ちつくしていた。誰も目をあわそうとしない。
 伶次はため息をついてソフトケースのジッパーをひいた。
 真夜はどこを見るともなくアルトサックスを手にしたままだった。

 葉月は第五スタジオを飛び出した。

 乾燥した廊下に出ると、一気に咳が押しよせてきた。
 嘔吐するように、体中の空気が吐き出される。
 そのたびに喉が痛んだ。
 息を吸えば喉元に塵の混ざった空気が引っかかり、酸素が肺に届く間もなく押し出された。

 葉月は両膝に手をついて体を前に曲げた。 足元がふらつき、視界が揺れている。立っていられないほどの脱力感が襲ってくる。
 コンクリートがむき出しになった壁に手をつき、重い足を運んだ。



 第二スタジオのドアノブにすがりついて防音扉を開いた。
 誰もおらず、葉月のテナーサックスが出しっぱなしになっている。
 空のアルトケースが床に転がり、大きなヘッドフォンと無数のスコアが椅子の上に散乱したままだ。

 誰かが使っていたのか、ピアノのふたが開いたままになっている。