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十二月九日

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 電車がホームに入ってくる。ため息をついて、ヘッドホンで聴いていた音楽を止める。車内では聴くことに集中できない。七人がけの真ん中に座る。いつもこの狭い車内の世界になじむまで時間がかかる。ラッシュの時間帯からは少しずれているのであまり混んでいない。老夫婦、大学生風の若い男と女、中年女性が二人、くたびれた鞄を持ったサラリーマンが三人シートに座っていて、ドアの側には作業着を着た、若いのか年をとっているのかよくわからない男が立っている。当然登場人物は日によって違うけれど、自分の顔より見慣れたいつもの風景だ。
 車内の空気になじんでくると、僕はいつも他の乗客の顔を見てしまう。そんなもの特に見たくもないはずなのにどうしても見てしまうのだ。およそ電車の中で、美しい、活力に満ちた顔に出会ったことがない。誰もが一様に自分の人生の居心地の悪さをここぞとばかりに電車の中で表現しているかのようで、そしてそういう顔をみることの誘惑に僕はいつも抗えない。
 今日の乗客も皆、程度の差はあるが沈鬱な表情をしっかり顔に刻み付けている。中でも僕の向かいのシートの真ん中に座っている女性はとても暗く悲しげな雰囲気を発散させていた。ベージュのコートに黒いブーツ、トートバッグを持ったありふれた格好で小ぎれいにしていたが、その目と口は最大限の力できつく閉じられ、まるで世界中を呪っているかのように眉間に深い皺を寄せている。
 僕はしばらくその中年女性の顔から目が離せなかったが、本当に呪われそうな気がしてきたところで自分も目を閉じた。しばらく経って、自分もあの中年女性と同じく眉間に深い皺を寄せ、世界を呪っているような顔をしていることに気付いた。顔の力を抜こうとしたが、上手くいかなかった。そこで、この女性があのとき泣いていた女性だということに気づいた。
 この前は泣いていて、今日は世界中を呪うような表情で電車に乗っている。この女性は一体どんな生活を送っているんだろう。
 電車が次の乗り換え駅に入り、車内が混んでくる。僕は女性の前に座っていることが苦しくて席を立ち、ドアの傍に立つ。他の乗客にわからないように静かに深呼吸をして、もう一度車内の乗客の顔を見回す。
そうか、電車というのはそのためにあるんだと僕は思う。移動する束の間、人は電車の中で自分の人生に溜った澱のようなものを放出し、またどこかへ向かうのだ。人の心の澱を満載した電車が血管を流れる血液のように世界中を走っていて、自分もその中の一滴の血として今日も、これからもどこかへ流れ続けていく。そんなイメージが頭を離れなくなり、しばらく目を閉じてそれをやりすごした。

 僕は時々、代々木公園を歩く。天気が良くても悪くてもあまり関係なく、この公園を歩く。いつも人は多いけれど、煩わしいと思ったことはない。多分、渋谷の街を歩いてきて急に木や池やカラスなんかに取り囲まれるから、人間がその風景の中に滲んでしまうんだろう。
 その日は天気が良くて、十二月にしてはだいぶ暖かい日だった。近くのコンビニで水を買い、井の頭通りを渡って公園に入る。野外音楽堂の方に廻って歩道橋に上がり、原宿方面へ流れて行く車を見下ろしながらタバコを喫った。景色がきれいな場所に来るととてもタバコを喫いたくなる。歩道橋から見下ろす車の流れがきれいかどうかは人によるだろうが、僕はその眺めがとても好きだった。
 車の流れが途切れたから、吸い殻を指で弾いて捨てて水をひとくち飲む。都会の真ん中でたまに出会うまあまあいい匂いのする風が公園に向かって吹いてきて、その風に乗るように歩き出す。久しぶりにいい気分だった。
階段を降りて公園に入るとすぐ、カラスが何羽も目に入る。木の枝にとまっていたり芝生の上を歩いていたりしながら、こっちを見ている気がする。少し怖いけれど、こっちもカラスをじっと見る。そこで初めて気がついたが、カラスは本当に黒いのだ。目も嘴も脚もすべて。僕はカラスが羨ましかった。あんな風に黒くありたい。だれかを羨ましいと思うなんて、こどものとき以来だ。
 僕はいつも早足で歩くけれど、代々木公園を歩くときだけは意識してできるだけゆっくり歩く。わざわざ意識しないと、散歩なのに街を歩いているときのようにいつの間にか早足になってしまう。それはたぶん勿体無いことなのだろうし、少し悲しいことでもあるだろう。          
 広い芝生や大きな木と、それらに滲む人間を眺めながらゆっくり歩いていく。素直にアスファルトの道を通ったり、たまに大きな木の下にたくさん落ちている枯葉を踏みしめながら歩いていく。だんだん夕方に近くなり、まだ暗くはないけれど日が当たらないところには冷やかな空気が淀んでくる。
 公園の中央には池があって、僕は自然とそこへ向かって歩いていく。池の周りには多くの人がいて、手をつないで歩いたりベンチに腰掛けて話をしたり、大きな犬を散歩させたりしている。僕もベンチに座って水をすこし飲み、池や人々を眺める。初冬の夕方、もうすぐ消えてしまう密度の薄い日差しに照らされた風景はとても穏やかで安定した感じがする。僕自身も穏やかで安定した人間に見えるだろうか。多分見えるだろう。僕はそれが嬉しい。
 そうしてしばらくベンチに座っていると、池の対岸にあの女の子が現れる。二十二、三のはずだけれど、母親が手作りしたような白いシンプルな長袖のワンピースを着ているせいで、もっと幼くもみえるしもっと年上にもみえる。彼女は池の縁に立って水面をじっと見つめていて、たまに顔を上げて空だか木立だか、どこか遠い場所に視線を移す。それからゆっくりしゃがんで、足元を見回してなにかを探している。よく見えないが、小石か木の欠片かそんなものを拾った彼女は、それを池の縁から二メートルぐらいの水面に投げ入れる。そして広がった波紋を、それが消えるまでとても真剣な顔つきで凝視していた。
 公園を早足で歩くのは本意ではなかったけれど、僕はしかたなく急いで池を廻り彼女のところへ向かった。歩きながら彼女を見ると、もう裸足になって足を水につけ水の冷たさを確かめているようにみえる。べつに彼女が池に入るのを止めるつもりはなかったけれど、放っといたら誰かが彼女に水から上がるように声をかけたりするかもしれない。彼女はもちろんそういうものを必要としていないから、不要な善意はできれば避けたほうがいい。僕が近くにいればどうにかできるだろう。
 彼女はワンピースの裾を腿のあたりまでたくし上げて、ゆっくり池の中へ入っていく。二歩、三歩と進むうちにワンピースの裾は濡れてしまうのだけれど、彼女は気にしていないようだ。彼女が池の中を歩く度に、踏み出した脚を起点にして静かに波紋が広がっていくのが見える。それはとても美しいけれど、どうしてか僕は苛立つ。池に飛び込んで滅茶苦茶に水を蹴り上げて、彼女の脚から生まれた美しい波紋を乱れた波で消してしまいたいと強く思う。その場面を想像しながら歩いていると、顔が火照ってくるのがわかる。僕は美しい波紋を壊すことに興奮しているみたいだ。
作品名:十二月九日 作家名:フガジ