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十二月九日

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「あてもなく歩くってよく言うけどさ、実際にあてもなく歩きまわるのってけっこう大変だって知ってた?」と彼が言った。
 「知らなかったけど、まあそうだろうね。そんな気はするよ」と僕は答える。本当は、彼に言われなくてもそんなことはよく知っている。
 「目的地とか全然ないんだけどさ、部屋にいてもどうにもなんないときってあるんだよ。音楽聴いても耳に入ってこないし、本なんか読みたくないし、スマホなんか触りたくないし、テレビなんかもう存在すらうっとおしいんだよ。そうなったらもう歩くしかないじゃん」と彼が続ける。僕はなにも言わず目で同意する。
 「で、部屋を出て歩き始めるんだよ。行き先なんか知るか、おれは自由だ、風や街のリズムに身を任せて歩いていけば自然となにかにぶち当たる、一歩毎におれは新しいなにかに向かって近づいてるんだ!みたいなことを思って歩くわけさ」
 返事をするかわりに、僕は薄く笑って先を促す。
 「しばらくは、そうして歩いてればほんとになにかが変わりそうな気がするんだよ。さっきまでの重たい空気が少しずつどっかに消えてくのがわかる。なんていうかな、これでやっと抜け出せるんじゃないかって感じだな」
 少し間を置いて、「ふむ」と僕は言う。
 「でも」と彼がため息まじりに言う。
 「いい感じで歩いてたはずが、どっかの角を曲がってちょっと行って、気がついたらもうだめなのよ。何十秒か前はだいぶポジティブでさ、今日で俺の人生変わるかも、とかちょっと思ってたのに気がついたらぜんぶ幻想なわけじゃん、当たり前だけど。ちょっと外の空気に触れてなんか気持ちよくなっちゃっただけでさ、別になにひとつ変わってないし、いいことなんか1コも起こってないんだよ。それで歩いてるけどやっぱり目的地もなくってさ、一気に現実に戻って家出る前より落ちるっていうね。それでしょうがないから何の変哲も無い通行人ていう感じでちょっと早足で歩いたりして帰るんだよ。ほんとにただの通行人なんだけどさ。結局歩いてた時間なんてたかだか二十分とかそんなもんで、いつも絶対なんにも起こらないのに、いつも絶対なんか期待して歩いちゃうんだよ」
 僕は頷いて、タバコに火を点けた。話の続きを待ったけど、彼は黙って、自分もタバコを喫い始めた。しばらく二人とも天井に向かって煙を吐き出していた。もう話は終わったんだろうと思っていたけど、煙を目で追いながら彼が言った。
 「それで逃げるように家まで帰ってさ、ドア閉めるじゃん。そんで、暗い玄関に立ち尽くしてしばらく動けないんだよね。分かるだろ?」
 「いや、よく分かんないな」僕がそう言うと、彼はニヤニヤしながらタバコの煙を僕の顔に吹きかけて、言った。
 「いいや、お前は分かる。ていうかお前は俺より分かるはずだよ、こういうの」
 でも僕には、本当に分からなかった。
 
猫の目をじっと見つめてしまう。気がつくと十五分ぐらいずっと見ている。どうしてこんなに美しい目を持っているんだろう。瞳は長い時間(何十年とか、そういう時間)をかけて磨かれたガラス玉みたいに透明で、同時に真っ黒だ。瞳のまわりは生き物の体の一部なんてとても思えないほどに碧い。似ている色はあるんだろうかと思って調べたら、ラリマールという石の色に近い。でも近いだけだ。石なんか比べものにならないぐらい猫の目の方が美しい。でも、生きものの一部がこんなに美しくていいのだろうか。そんなことが許されるのか、不思議な気持ちになる。
 まっすぐ僕の顔を見ている猫の首を、下からそっと掴む。親指と中指で首筋を揉むようにしてやると猫は目を細め、喉を鳴らし始める。しっとりした猫の体温が僕の手を伝わる。気持ち良さそうに閉じた猫の目を、左手で開けてみる。右目、左目。やっぱりとても美しい。
 猫の首を掴んでいる右手に少しずつ、力を入れていく。あるポイントの、一歩手前まで力を入れる。でも猫は大人しいままで目を閉じている。このポイントを越えたら、なにが起こるんだろう。多分、猫は最初苦しさから逃れるためにすごく暴れる。その後は僕には想像できない。でも最終的に猫は暖かくなくなる。猫の目はそれでも美しいままだろうか。僕は後悔するだろうか。

 朝、電車の中で泣いている女性を見かけた。シートのいちばん端に座って時々啜り上げている。最初は風邪でもひいているんだろうと思ったけれど、固く膝の上に組んだ手の上に涙が落ちるのが見えた。朝の電車だからとても混んでいたし、誰もが目を閉じるか小さな画面を見つめている。僕はたまたま女性の真ん前に立っていたから気付いたけれど、多分僕以外に女性が泣いていることに気付いた者はいないだろう。気付いたとしても誰も何もしないし、できない。ただ朝の電車の中で泣いてる女の人がいたな、という記憶が生まれるだけだ。
 急に女性が顔を上げる。その動きに僕もつられて視線が動き、目が合ってしまう。きれいな手をしていたからまだ二十代半ばという気がしたけれど、顔をみたら多分四十歳は過ぎている感じだった。若い女性が電車の中で泣いているのは、なんとなくあってもいい光景という気がしてすんなり受け入れていたけれど、女性がもっとずっと年上だということがわかって僕はあからさまにハッとしてしまう。女性もすぐに顔を下げてさっきよりももっと強く、両手を石のように固く組み合わせる。
 悪いことをしたな、と思う。僕は女性に対してそんな反応をみせるべきじゃなかった。ただでさえ泣いている女性に対してなにもできないのに、その上思ったより年上だったからって驚くなんてそんな権利は僕にはない。泣いていたからって、思ったより年上だったからって僕はあなたのことを変に思ったりはしていませんよ、と女性に伝えたかった。でもそれを伝える方法なんてどこにもない。ある種の思いには、伝達する方法がまったく存在しない。
 無言の乗客をいっぱいに乗せて電車は次の駅に着く。客が少し降りて、降りた客より少し多い人数がまた乗ってくる。車内はとても窮屈で静かで、それはそれでひとつの安定した世界だ。僕がその世界に馴れてあんまりなにも考えなくなった時、電車は次の駅に止まるため速度を下げる。次はどこに止まるんだっけと思ったとき、女性が降りようとする素振りをみせる。混んでいるのであまり動けなかったけれど、僕は精一杯体を後ろにずらして女性が降り易いように場所を空けた。女性は何も言わなかったけれど、小さく会釈をしたように見えた。
 女性がいなくなり僕の前の席が空いたけれど、座ると女性の体温を感じてしまう気がして座りたくなかった。隣の人が座ってくれればいいのだけれど、そんな気配はない。僕が座らなきゃいけない場面だ。僕はシートに座りカバンを膝の上に乗せる。僕ひとり分のスペースが車内に空いて、なんとなく廻りの人達もほっとしているような気がする。両手を固く組んでみる。ずっとそうしていたら涙が出てくるような気がした。でも涙は出ないし、女性の体温みたいなものもどこにも残っていなかった。
 それから一週間ぐらい経った頃、僕はまたその女性と電車に乗り合わせる。
作品名:十二月九日 作家名:フガジ