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ベイクド・ワールド (上)

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 狭い通路を抜けると、左側に和式トイレと階段が見える。二階は店主の居住スペースになっているのだろう。階段には紐が張られていた。右側にはカウンターがあり、店主は椅子に座りながら新聞を読み、煙草をふかしていることが多かった。そこにいない場合は二階にいる。いささか不用心のようにも思えたが、あまり価値のあるような本は見当たらなかったし、ここから盗もうという者もいないだろう。今日はカウンターに店主の姿が見えなかったので、おそらく二階にいるのだろう。耳をすませると、二階から物音が聴こえた。カウンターの隣に女の子がいつもいるフリー・スペースがある。案の定、彼女はいなかった。彼女も、ちゃんと学校に行き、教育を受けているのだ。もちろん当然のことだが、彼女が教室の机にきちんと座り、授業を真面目に聴き入っている姿はまったく想像できなかった。
 ふいに階段から店主が顔を出した。一瞬、僕の顔を見たが、すぐに視線を外し、カウンターに入っていった。学生服の僕に対しても何もおかしいことはないというそぶりだった。カウンターに座るとセブンスターに火をつけて、紫煙をくゆらせた。それからしわくちゃにたたんであった新聞を開き、記事を読みはじめた。それでも、居心地が悪いようで、咳払いしたあと、後方のテーブルに置かれたLPプレイヤーの電源をつけ、ジャズ音楽を流した。ジャズに詳しくない僕にはそれが誰の音楽なのかは分からなかったが、きっと有名な曲なのだろう。だが、この小汚い店内にはそのジャズは不釣り合いだった。ジャズもどことなく居心地の悪そうな音を出していた。
 僕は誰もいないフリー・スペースに入ってみることにした。今まで彼女がいたので、入ることができなかったのだ。彼女がいつも座っている木製の丸椅子があった。僕はその隣の椅子に座ってみた。四脚のうち一つの脚だけがすり減っていてぐらついた。机の上には消しゴムのかすが散らばっていて、シャープペンシルが一本だけ置いてあった。僕はそのシャープペンシルを手にとって、ノックボタンを何回か押してみた。かち、かち、という小気味い音が聞こえ、芯が少しずつ出てくる。飛び出た芯を再び戻してから、同じようにノックボタンを押す。この行為には特に意味はなかった。授業中、退屈なときに僕がよくやる癖だった。フリー・スペースの通りに面した壁には小窓が設けられていた。すりガラスだったので外の様子を見ることはできなかったが、薄暗い店内に光を招き入れるためにはとても重要な役割を担っているように思えた。店内とフリー・スペースの雰囲気はまるで違った。
 シャープペンシルをいじりながら、僕は小窓を眺めていた。すると、人影が横切るのが見えた。店外で犬の吠える声がした。吠えるといっても威嚇するような声ではなくて、甘えるような声だった。足音が店内に入ってくるのがわかった。革靴が床を叩く音だ。店主が新聞をくしゃくしゃに畳み、煙草を灰皿に押し潰した。気がつくとジャズは鳴り止んでいた。「やあ、こんにちは」店主のしわがれた声が聴こえた。
 店内に響いた足音が止まった。少し間をおいて、「こんにちは」という独特な渇きをもった声が聴こえた。それはまぎれもなく彼女の声だった。
 僕はあわてて、シャープペンシルをテーブルの上に置いた。そのとき、ペン先に出ていた芯が折れて、はじけ飛んだ。僕は椅子から立ち上がろうとしたとき、彼女はすでにフリー・スペースの入り口に立っていた。入口は人一人が通るのがやっとだった。僕は身動きができなかった。彼女を見た。彼女も僕を見た。冬の寒空が僕を見つめていた。視線が一瞬、交差した。彼女はいつもの制服を着ていた。僕はすぐに視線をそらした。彼女は入り口に立ち止まったままだった。僕は机の上に転がった折れた芯を眺めていた。視界の隅に彼女の輪郭が見え、そこから視線を感じることができた。僕は唾を飲み込んだ。その音が彼女に聴こえてしまうような気がした。もう一度、唾を飲み込んだ。今度はできるだけ音をたてないように。心臓の鼓動がはやくなり、首筋あたりに熱がおび、背中がじっとりと汗で濡れた。 
 沈黙。それはきわめて完全な沈黙だ。僕はもう一度、おそるおそる彼女に視線を向けてみた。視線を合わせることはできなかった。彼女がスクールバッグを左手に握っているのがわかっただけだった。
 ふいに、彼女の身体が動いた。彼女はスクールバッグを床に置き、僕の隣、つまり彼女がいつも座っている席に腰を下ろした。僕がまるで空気のように存在していないかのように。椅子に座ったまま、彼女はスクールバッグからノートを取り出した。ノートが机の上に置かれた。僕は机に置かれたノートに目を落とした。そこには『Sin-Sekai # 4』と書かれていた。彼女は続いてペンケースを取り出し、机の上に置いた。それから、バッグのジッパーを締めたあと、椅子から立ち上がり、フリー・スペースを出て行った。
 僕は今のうちに店を出ようと思った。床に置いてある僕のスクールバッグを掴み、椅子から立ち上がった。フリー・スペースを抜け、店主のいるカウンターの前を抜けた。そして、入口に繋がる狭い通路に出る。その通路の真ん中に彼女はいた。本を探しているようだった。何冊かは本を脇に抱えていた。僕の存在に気がついた彼女は僕をさっきと同じように見つめた。しかしすぐに彼女は僕が店を出ようとしていることに気づいて、本を脇に抱きかかえたまま、黙って店の外に向かい、通路を開けた。僕はバッグを抱え、足早にその狭い通路を駆け抜けた。途中で一冊の本を棚から落としてしまったが、それを拾い、元の棚に戻す余裕は今の僕にはなかった。何故こんなにも動揺しているのかも僕には分からなかった。通路を抜けきると、僕は足早に店から離れた。背中に彼女の視線を感じるような気がして、しばらくしてから、後ろを振り返ってみたが、そこにはもう彼女の姿は見えなかった。