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霧雨堂の女中(ウェイトレス)

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「マスター」
と私は不機嫌そうな声音を作って話しかけた。
「なんだい?」
と、このおとぼけ野郎は飄々と尋ね返してきたので、私は彼女のテーブルから回収したカップをぐいとマスターに突きつけた。
「上手じゃないですか、ラテアート。なんで教えてくれなかったんです?」
するとマスターは、ああ、とまるで今気がついたかのような顔をした。
「そりゃ、聞かれなかったからだよ」
本気なのか天然なのか、マスターはそう答えて私からカップを受け取るとさっさと洗い物を始めてしまった。

『聞かれなかったから』

私は、何か言おうかとも思ったが、喉までせり上がった言葉は全部そのまま飲み込んだ。
そう言えば、確かにその通りなのだ。
ラテアートにしても、
彼女の事にしても、
『雨女』の真意にしても、
マスターの過去に何があったかにしても、だ。

でも、

今はそんなことはどうでも良いのだ。
なぜかって言えば、聞くことや知ることは『全ての良きこと』の中に含まれるとは限らないからだ。
知らないことがいいことだってあれば、聞かない方がいいことだってある訳で、取捨選択はきっと尋ねる方にも、与える方にも許された権利なのだから。
マスターの意図は分からない。
でも私はそれを知り得ず、自分でも当面知らなくても良いのではないかと思った。
彼女が去った街の中へ、窓の外へ私はまた目を向けた。
すると、雨は止んでいた。
窓枠から切れて見える眺めの中で、空の様子までは分からない。
しかし、それが例え束の間の梅雨の僅かな切れ間であったとしても、まるで彼女とともに雨が去ったかのように私には感じられた。

もうすぐきっと夏が来る。
雨が上がれば、梅雨が去ったなら、
この街にもきっと、夏が来る。

涙のような雨が空けたなら、
その時には陽の差す空と、あざやかなばかりの、夏が来る。


<『梅雨と女中と霧雨堂』了>