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みやこたまち
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アバンチュール×フリーマーケット ~帰省からの変奏

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8.女の不在に気づく男達と女そして猫



 気づいていたはずだった。だが気づきたくなかったから、あえて気づかないふりをしていたんだ。という陳腐な感情に、あえて身をまかせてしまえたら、どれほど楽だろう、などという予防線すら、馬鹿らしい。明かりのついていない戸口を見たときですら、私は「おや、今日な何か習い事のある曜日だったっけか。それならどこかで晩飯でも食ってくればよかった」と思い、と同時に、苛立ちはじめていた。誰もいない部屋に入るこまごまとした手続き、心理的重圧。風呂を汲むために、浴槽に栓をするときの姿のきまりの悪さや、玄関、ダイニング、リビング、私室という順番に灯りをともし、部屋になじむまでの何秒かのうそ寒。背広を脱ぐ、あ、鍵や財布やポケットの小銭や定期入れや何かそいういうとにかく、もう、全てが煩わしい。この煩わしさは、妻が部屋にいれば感じずに済んだはずのものなのだと思う。冷蔵庫から缶ビールを取り出す。自分の靴下の匂いが鼻につく。時計を何度も見る。携帯をチェックする。ただ、妻がいないというだけで、普段と何も変わらない部屋がそこにある。ただ、妻がいないという事実は、その普段と何も変わらないはずの部屋の全てを異質な世界へと変貌させていた。このまま、コンビニへ買い物に出かけるとすると、おそらく夜の世界もまた、部屋に入るまでの夜とはまるで異質の世界になっているに違いない。

 突然に何かが変わるということに対して免疫が強いのは女だ。むしろ、女はそれを望んでいるようなところがある。妻を脅威と感じるのはそういうところだ。安定を望んでいると普段の生活ではそう言うが、実はもっと違う何かを常に求めている。そのためなら、現在の生活など崩壊してもかまわないのだ。それはつまり、彼女とこの生活とは完全に分離して存在しているからなのだ。男は違う。男はこの生活、この環境を保持していくために生き、環境と同化する存在なのだ。環境の崩壊は自身の崩壊に等しい。だから、守ろうとするのだ。浮気とか、不倫とかの話ではない。断じてそうではない。この小さな部屋は妻のものだったのだと思う。自分は、この小さな部屋という時空を確保し、そこに居ついたのだが、それを形にしたのは妻だったのだ。そして妻にとってこの部屋は、満足できないこともない、一種の書割でしかなかったのだ。別のステージがあてがわれれば新たな書割を生み出す。それが女だ。それが妻だ。そうだ。そうだ。妻は、新たな書割のある生活へ移動したのだ。書割を成立させる最大の要素であるところの妻の不在は、これまでの生活の要であった妻の不在は、妻とこの部屋によって成り立っていた夫たる私の崩壊に他ならないのだし、無能の烙印をおされたことと等しい。彼女はこの安定よりももっと楽しい、もっと可能性のある新たな舞台へ移ったのだ。私の世界の全てを、粉々にして。

 明日からの生活を考えるととてつもなくメンドクサイ。どうせそのうち戻ってくるだろう、とは思う。思うがいつ戻るかは分からない。仕事はある。休めない。警察へ届ける。妻の実家への連絡電話でいいのか。それとも危急の場合だから電報か…… 何かぬいぐるみとか、トレイになるタイプの値のはるものが失礼が無いのだろうか。ナンテ。警察へ届けるとしたら、今すぐ110番だろうか。きっと、「まだ失踪と決まったわけじゃないでしょう」とニヤニヤされるだろう。もう、死んでくれ。死んでくれれば、警察へ行っても相手にされなかった、気の毒な市民としてワイドショーに出たりできるし、何なら手記でも出してもいいかもしれない。それで仕事をやめて、フリーライターとしての道がつながれば妻の失踪も役立ったということになる。それにしても、腹は減った。さて、外界はどんな風に変わったか。コンビニへでも打って出てみるか。そして、先手を打って、強盗か何かの体で、一足先に留置されてみるのも一興か。どうせ、もう世界は変わってしまったのだから。

 とりあえず、明日の仕事は休みにしようと決めた。

 夕食はインスタントラーメンが残っているので、それで済ませる。たかだか妻が失踪したくらいで騒ぐことは無いと、反芻し続けるが、テレビのニュースを見る気がしない。それはつまりあえて情報不足の状況に自分を置いておくことで、何の方策も講じられない理由を保持していたいという気分の表れに違いない。実際、ここで情報収集に勤しんだとして、それで「生け花教室のみんなと観劇に行ってきます」というメモが電話台の裏に落ちているのを発見してしまったら、帰宅してから今までの自分の狼狽振りが、あまりにも惨めだ。見栄だ。それは確かにそうだ。自分はたいていのことでは狼狽なんてしないし、何かあってもきちんと対処できると信じて暮らしてきた。それがこの有様では…… もう、寝よう。子供のように寝よう。そうすれば明日の朝には、妻が戻っているかもしれない。そうしたら、「夕べは遅かったのか」と何食わぬ顔で尋ねよう。もし、もどっていなかったら、会社へ連絡しよう。ここで、あえて日常生活を継続することが、強さだとは思わないし、継続できないことがみっともないとも思いたくない。事件がおきたのだ。これまでの生活、これまでの自分を変えるチャンスをもらったのだ。自分からは、奪いにいけなかったこの機会を、十分に生かさなければ。そのためには、しばらくの間、妻に失踪された気の毒な夫の立場を活用しなければ。最大限に、活用しなければ。



 気が付くと女は部屋にいなかった。服はハンガーにかかっているので、また風呂へでも言ったのだろうと思う。男としても、朝、再び顔を合わせるのは、少し興冷めかと思っていたので、女が気を利かせて部屋を出たのだろうと思う。何か、気持ちが落ち着かなかった。男は布団を跳ね除け、服を着替えた。尻ポケットの財布から、二万円抜いて、窓際のテーブルの灰皿の下に置いた。旅館のためなのか、女にあてたものなのか、自分でも分からなかった。ただ一つ言えるのは、昨日の早朝に電車を待っていた時に、漠然と抱いていた明日とは、絶対に違っていた、ということだった。これが、単なる回り道だったのか、それともこの先何かのしがらみを投げかけてくるのかは分からないが、少なくとも、今の自分にとっては、番外だったのだと思った。となると、むしろこの一晩の出来事は、女のためにあったのだろうと思った。
 男は、鞄を持ち、部屋を出た。廊下にはまだ夜が沈殿していた。もう二度とここに来ることは無いだろう。また、途中で女に出くわすことも絶対に無いだろう。男はそう確信していた。まだバスも走ってはいない。昨日は電車を待ち、今朝はバスを待つのか。男は道をはずれ、小道を川に向かって下りていった。 川原には船の準備をしている初老の男がいた。私は斜面の林から川原へ出るあたりに立ち止まり、たばこを吸おうとした。だが、もうたばこは残っていなかったので、投網をたたんでいる初老の男に声をかけた。
「おはようございます」
 男は怪訝そうな顔を一瞬だけこちらにむけ、そのまままた作業に戻った。その態度は、私の朝をめちゃくちゃにするのに十分な非礼だった。私は川原の石に、いいように足元をもてあそばれ、独りで初心者が地面の一本線の上での綱渡り特訓みたいな挙動を強制され、ますます腹が立ってきた。