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みやこたまち
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アバンチュール×フリーマーケット ~帰省からの変奏

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「おはようございます」
 船のへさきまで歩いていって、俺はもう一度声をかけた。
「ぁはぁ」
 男は網をしごきながらこちらを見た。歯はヤニで黄色く汚れ、隙間だらけで、どじょうヒゲはよれよれだ。きたない男だな。と俺はさらに腹を立てていた。
「川下りとか、出来ますか」
「ぁはぁ」
「途中に滝とか、急流とか、ありますか」
「ぁはぁ」
 俺は肩にかけた鞄をしっかりと抱えなおし、船のへさきを二三度軽く押してみた。船は面白いように揺れた。
「さわんじゃねぇよぉ」
 網を両手で広げてバランスをとる男の姿が無様だった。
「うるせぇ」
 俺はなるべく冷静な顔でそう小さな声でつぶやき、船のへさきを力いっぱい押してやった。初老の男は船の中にもんどりうって転び、身体と網がからまって蠢いている。
 船はゆったりと川の流れに乗っていく。俺は朝ののどかな川面をたゆとう小さな木船に、ようやくすがすがしさと旅情とを感じ、気分が良くなった。しかし、その煙草が吸えなかったことと、あの船に乗って川下りを楽しむという一瞬だけよぎった企画がつぶれた事が心残りだったが、人生、何もかもが思い通りになるわけではないと思うので、無理やり落ち込むこともなかろうと考え直した。それにしても、もう一度あの斜面を笹を払いのけながら上るのは気が進まない。さらに、バスを待ってそれに乗って地元の年寄りにまじってにぎやかな町に戻るのも、今更な感じがする。
「さぁて、どうするかな」俺は鞄を川原におろして、その上に腰を下ろした。尻に軽い違和感を感じて、鞄の外ポケットをまさぐると、まっさらな煙草が入っていた。買った覚えの無い煙草だったが、単なる物忘れだろう。男の新しい朝は、こうして始まった。

 同じ頃、女は宿の食堂で焼き海苔や卵や山菜の朝食を、様々な蝉の声をバックに食べていた。「帰らないといけないな」という思いは、「もう、帰らなくていいんだ」という思いと同じくらいの重みで胸を塞いでいた。川魚には小骨が多い。結局、このまま家にもどって、この一晩の番外編を特異な物と位置づけて、その後を過ごすというのが、もっとも意義があるようにも思われた。味噌汁のなめこがぬるぬるとしていた。「予定調和だなんて、そんな風にまとめてしまいたくはないわ」私は結局、今回の出来事を一時の気の迷いとして片付けたくは無かったのだ。「日常のレールを踏み外した事に意義があるんじゃない。今、こっち側に来ているということに意味があるはず。このまま戻るんじゃ、ただの家出ごっこだわ。私は新しい私をはじめるきっかけを、せっかく掴んでいるんだから」かといって、その新しい自分を、こんな辺鄙な場所に埋もれさせる事を、良しする道理はない。「違う私として、今までの場所を訪問するっていうのは、どうかしら。それでこそ、違う私の存在証明になるってものじゃない」私は、昆布茶を流しに捨て、やかんから、煎茶を汲んだ。今日は晴天だ。


 目覚めると晴天だ。こんな朝だからこそ、しっかりしなければ、と思い布団を跳ね除ける。足元でニャッ!という音が立つ。白い仔猫が布団の津波からからくも逃れそこねて仰向けに埋もれたのだと思うが、家には猫はいない。「猫を飼っていたのは、前の前の家だ。あの当時は一戸建てに住んでいた」今は、2LDKか、とため息をつく。朝からため息をついてしまった日は、必ず電車に座れないが、今日は電車に乗らないことに決めていたことに、気づいた。夕べ、寝る前にそう決めたのだ。今日は無断欠勤の日に決定。妻に逃げられた男は、きちんとカレンダーを指差し確認をし、今日は不燃物の日であることを知り、流しの脇にぶらさがっている分別一覧をじっくりと検討したりする。ダストボックスはなぜか、ちりめんじゃこのパックと、鰹節、みりん干しなどのトレイが大量に詰め込まれていたし、缶を入れておく箱には、猫の餌が半分以上も残った缶がこれまた山になっていて、蓋を開けていると相当ににおう。ニヤ、ニヤと猫の声が聞こえる。窓の外からだ。さては、今朝ほどの一匹は、窓から迷い込んだ本物の猫だったか、と思い、はねのけた布団をもう一度バサバサとふってみるが、猫はどこにも落ちてこない。しかし、この部屋のどこかに白い仔猫が隠れている筈だと確信している。何か、餌でも出しておけば、出てくるかもしれないな、と思い猫の餌になりそうなものが無いかと冷蔵庫の前に戻って扉をあける。足元をふわふわとした白いものがすり抜けた。冷蔵庫の中には、猫の餌になりそうなものしか入っていなかった。男は、昨日の朝食を思い出そうとした。だが分からなかった。冷蔵庫には卵も無かった。野菜も無かった。ただ、ちりめんじゃこのパックが積み重ねられているだけだ。自分は昨夜冷蔵庫を開け、ビールを出して飲んだはずだった。だが、ビールも、空き缶も無かった。ニヤニヤという泣き声が玄関の外からも聞こえはじめた。「朝から猫責めか」男はそう思い、失踪した妻が大の猫嫌いではなかったかと勘ぐった。だが必要以上に猫を嫌っていたといことも無かったはずだと思った。道をあるいていて野良猫に会ったら餌を与える、という習慣には反対していたが、それは、冷たさではなくむしろ、偽善的にすぎるという点での異論だったと思う。野良猫にしてみれば、たとえ偽善だったとしても、その時、その瞬間に食べ物にありつけるという事は、命を繋ぐ大きな意義を持つとは思うのだけれど。そういう私は野良猫は一切無視するので、大きなことは言えないのだけれど。しかし、何故、突然に、この部屋は猫で溢れ始めたのだろう。これは妻の失踪と何か関連があるのかもしれない。男はちりめんじゃこのぱっくを一つ冷蔵庫の前でひきむしるように開けて、ざらざらと口に流しこんだ。


 帰る。なにか、晴れがましいような、気恥ずかしさ。戻る。日常は怒涛のごとく事実を押し流し埋め尽くす。思い出は、必要だ。かつて自分はこの生活、この自分がいやでいやでたまらなくなって家出をしたのだという思い出だけが、家出前とは違う。思い出は、後悔と共に心の奥底に根をはって、自信を育くむ。家出をしたのだ。かつて自分は家出をしたことがあった。この先、何かあったらまた、家出をすればいい。そして、思い知らせればいい。小旅行だと偽ってでも。書置きを引き出しにそっと残して。遺書。