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みやこたまち
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クロスワードパズル考(宇祖田都子の話より)

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「僕はね、クロスワードパズルというものを認めているのだよ」

 彼は物憂げに足を組替えながらそんな事をいうのです。私はクロスワードパズルなど、どこかへ向かっている時などに、他の暇潰しを考えつかない、つまらない人間が飛びつくだけの、つまらない浪費に過ぎないと考えていたのでした。ところが、彼の趣味を隅々にまで巡らせた、博物館的私室に招き入れられ、籐椅子にすっぽりと納まった彼から、倦怠をまとった口調でそう言われると、なるほど、私はあの児戯について深く考えたことはなかったっけ、いや、そんな風に考える対象として取り扱った事すらなかったのだという風に思わずにいられませんでした。

 昼夜を問わず鎧戸を閉ざし、暗赤色のペイズリー柄の所々に織り込まれた金糸、銀糸が、細心の注意を払って、ぎりぎりの長さに調整されたランプの炎の揺らめきを反映して煌きを放つこの室内で、彼が「クロスワードパズル」と言うと、それが前近代的な秘術のような、危険で有効なあやかしのような気がしてきます。

 私の放心を無視するかのように彼は目を閉じたままさらに語ります。

「昔、といってもたかだか十二、三年前なのだが、僕はあらゆる行動に興味を失ったことがあった。まだここの本棚が壁の単なる窪みでしかなかった頃の話さ。僕ははっきりと飢えていた。それは確かな感覚で僕を支配していたのだが、一体何によってこの飢えを満たせばいいのかが分からなかった。それは拷問だよ、宇祖田君。僕はあらゆる物事に対して、傲慢な好奇心を駆り立てようと必死だった。書庫に詰まっているのはそのころの遺物でね。今ではもう手にとる気さえしない、雑多で不完全で品性のかけらも無い屑ばかりさ。よかったら後から覗いていくといい。何でも持っていっていいから」

 私は、周囲を見渡しました。天井まである作りつけの本棚から、古い革の装丁を施された沢山の背表紙が、私に向かってなだれ落ちてくるようでした。

「他人と関わっている時間を惜しんだあまり、人間嫌いになった。今の発語障害はこの頃の経験、いや無経験に起因しているという訳だ」

 彼はこれで一区切りとでもいうように口を噤み、あたかも椅子の形状が気に食わないのだとでもいうように窮屈なのびをしました。それは悔恨にも、自愛にも見えました。

 彼の発語障害とは、他に類を見ない症状を表していました。
 彼の声は低くかすれていて、普通でも聞き取りにくいのですが、彼の場合、何かを言い終った後に、残響というか、木霊というか、とにかく言葉が輪唱するように続くのです。もちろん、言葉はどんどん発せられているのですから、まるで彼以外に何人もが一時に話しているように聞こえてしまうのです。声帯と呼吸の問題だと医師は診断したらしいのですが、彼はどうやら頭蓋骨形状の問題だと確信しているらしいことも私は知っていました。

 今ここに記載されている彼の言葉は、だから私が聞き取れた範囲の言葉でしかありません。彼も自分の言う事全てが相手に伝わるなどとは了解していません。彼の声が柔らかに溶け合って、歯切れ良いリズムに乗って語られる時、それはもう音楽です。聞き取りにくいという事と不愉快さとは一致しないのです。

 私は彼の話を聞くのが好きでした。

 ただ、理解しようとした時には、この快感は一気に不快へと移行するのです。今は、彼のクロスワードパズル観に対する興味がこの不快を凌駕して私に忍耐力を持続させていたのでした。

「そんな状態が続くうちに、僕は簡単な暇潰しを試してみようとしていた。絵を描く。カードの一人遊び。様々な室内遊戯を手にとってみた。だがね、これらは皆、暇潰しというには面倒すぎた。手続きが煩雑だった。こんな手順を踏めるくらいならば、僕はもっとまともな何かが出来るはずだと思った。読書もしてみた。しかし、一群の文字が意味を形成し始めた時に、僕はことごとく冷めてしまうのだ。何冊も手にとった。結局、重量の問題だったのだ。重すぎると捲るのが面倒になる。軽すぎると手にとる意味が無いような気がする。ページ数の問題じゃない。何にでも意味を付ける事は出来るが、求めてもいない意味を押し付けられるのがたまらなく嫌だった。疲れただけだったよ。この眼鏡が、当時の記念碑だ。原爆ドーム、強制収容所、終戦記念日、まあそんな類の遺物だね」

 彼の眼鏡には黄色の分厚いレンズが嵌まっています。縁は鼈甲と象牙とで出来ていますが、芯はチタン製だそうです。洋服を選ぶように眼鏡を選ぶわけにはいかなかったのだと、彼は言います。それが彼の額と鼻筋、そして耳の位置といった頭蓋骨上の制約によるのだという事は分かりました。つまり、脳の問題なのだと彼は説明してくれました。

「眼が心の窓だという陳腐な言い草によるならば、視力に障害のある者は心が病んでいるということになるのだろう。これはある意味では事実なのだ。人間の視覚依存は文明社会上の要請と、人間の種としての特質とがあいまって生じた。これが人間を進歩させてきたのと同時に、限界をも作り出している。僕はこの特質を放棄する事で、視覚を超絶する資質を備えたと言ってもいいのだが、いかんせん、生活上眼鏡を外す訳にはいかないのだという不徹底が、腹立たしくて仕方が無かった頃もあった。今はそんな事どうとも思わないがね」

 彼の眼はかなり大きく、白目は本当に真っ白でした。透明水彩の白ではなく、油絵の具のチタニウムホワイトのような、青ざめた白でした。裸眼ではどこにも焦点を結べない水晶体は引き込まれんばかりの魅力を放ちますが、そこに自分の姿が映ることはないのだという諦めがたまらない哀愁を誘いもします。ただ、彼は不完全な視力強制器具としての眼鏡をかけることによって、辛うじてこちら側と連絡を保っているだけなのです。眼鏡を外した彼が一体何を見ているのかは、誰にも分からないでしょう。

「クロスワードパズルに手を染めることは、身を切られる思いがしたよ。当時の僕は君と同じように、クロスワードパズルを認知していなかったからね。とうとうここまで落ちてしまった、と情けなくもあった。ただ一つだけ効用と認めていたのは、知識への挑戦に勝利する喜びというものだった。僕は、自尊心を保ち、これまでの全生活を試す闘技場だと、考えるよう努力した。

 そういう操作をした上で、僕は朝刊の日曜版にあったものから試してみた。苦も無く解けた。くだらなかった。確か「こいのぼり」が答えだった。なんという陳腐さだろう。僕はね、いくらなんでもこんなものではないはずだ、と思った。クロスワードパズルをこの次元に貶めているのは、つまり問題製作者が我々を愚弄しているのに違いないのだとね。私は怒りに駆られた。不当に貶められたのだからね。それでその日の午後には、とうとう毎月出ているクロスワードパズル専門誌の全てを書斎に積み上げていた」

 彼はここまで話すとおもむろに立ち上がり、部屋を出ていってしまいました。こうした行動に私は馴れていましたから、劇の幕間にするようなことをして再開を待ったのです。彼の中座は彼自身の事情によって起こります。私に非があったのなら、彼はすぐさま人差し指で空を切り裂き、こう言うでしょう。「去りたまえ」