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自然主義的独創性⇒合意可能性


 では絵を見てみましょう(http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c8/Leonardo_da_Vinci_-_Virgin_and_Child_with_Ss_Anne_and_John_the_Baptist.jpg/762px-Leonardo_da_Vinci_-_Virgin_and_Child_with_Ss_Anne_and_John_the_Baptist.jpg)。皆さんにはどう見えますでしょうか。「四人の人間がいるのが見える」方がおられるかもしれません。あるいは、「マリアとアンナとイエスとヨハネがいるのが見える」方もおられるでしょうか。または、「レオナルド・ダ・ヴィンチの絵が見える」方もおられるかもしれません。
 しかし皆さん、ここでちょっと立ち止まって調べてみましょう。今私が恣意的に例示しましたところの認識は、どういうものなのでしょうか。皆さん、わたくしたちには、本当にこのように見えたのでしょうか。"人間"、"マリアとアンナとイエスとヨハネ"、"レオナルド・ダ・ヴィンチ"、"絵"。わたくしたちはこれらについて、何を見てこれはこうであると知ったのでしょうか。皆さん、見て知ったのではないのです。実に、他人に聞いて知ったのであります。この人工物-超自然的観点、他者を拠り所に認識いたしますと、レオナルドが見た自然の形-美-を認識することはできません。レオナルドがこの場にいるとしまして、彼に言ってみましょう。
 「これは四人の人間ですね。これはマリアとアンナとイエスとヨハネですね。これはあなたの描いた絵ですね。いや、たいしたものです」
 レオナルドは何と言うでしょう。わたくしは想像いたします。
 「そうではないんです。私が見たのはそれではないんです」
 と言ってがっかりする彼を。これですと、起こる事象としてはこれだけのことであります。つまりわたくしどもにおいては他人に聞いた認識の退屈な反復と、レオナルドにおいては幻滅と困惑とです。またこの絵を見る各人の間においても、それぞれに多様な人生を歩み多様な既成概念に依拠して見るならば、齟齬と論争が起こること請け合いであります。正に今日のわたくしたちがこの状況にあることについては、申すまでもございませんけれども。
 では、わたくしたちが、レオナルドがこの絵を描いたときと同じようにこの絵を見たらどうでしょうか。他人に聞いて知った超自然的認識を排除して、自然主義的観点で、自己を拠り所に、独創的に、ありのままの自然を見たならば。この場合、わたくしたちには、次のように見えるかもしれません。
 「これはこのような自然の形である。ああ、美しい。しかしところでこれは何だろう」
 とです。すなわち、レオナルドが見たのと同じもの、ないし似たものを見るのではないでしょうか。ではレオナルドにそれを伝えてみましょう。
 「レオナルド、この自然の形は確かに美しい。しかしところでこれは何だろう」
 レオナルドは何と言うでしょう。おそらく彼は目を輝かせて、
 「いや実にそうなんだ。しかしところでこれは何だろう」
 とでも言うのではないかとわたくしは思うのです。それでこの場合起こった事象は、わたくしたちとレオナルドが見たもの-このような自然の形、美-についての認識の合意と、その認識に基づくさらなる探究、議論、親睦であります。この絵を見る各人の間においても同様でしょう。ここでレオナルドとわたくしたち彼の絵の鑑賞者は、自然研究家ないし自然哲学者として振舞うと申すことができるでしょう。
 皆さん、ここで起こったひとつの一見奇妙な事象にお気づきでしょうか。わたくしたちとレオナルドは、独自の観点で自然を見たはずです。他者に聞いて知った認識を慎重に排除して、見えた通りに見たのですから。それは真に独創的認識であるはずです。にも関わらず、わたくしたちとレオナルドとは、両者の認識の同一性について、何か神秘的なまでの必然性を持って、合意を形成いたしました。これはいったい何事なのでしょうか。
 皆さん、実はこれこそが、わたくしが支持したいところの、自然主義的思惟方法の善い効果であります。各人が自然主義的独創性によって認識し思惟したときに起こる、不可思議な合意可能性の現出であります。
 この一見奇妙な事象の構造は、存外単純です。ここでレオナルドは自然を見て、そのままに自己に写し取り、そのままに紙に写し取りました。わたくしたちは、その自然を見て、そのままに自己に写し取ったというだけなのです。両者が見たものが同じものなので、必然的に合意に帰結するのであります。しかしながら、なおひとつの疑問が残ります。わたくしは、自然をそのままに自己に写し取った、と簡単に申し上げましたが、そもそもこのような事象はなぜどのように可能となるのでしょうか。レオナルドとわたくしたちはそれぞれ独自の観点で独創的に自然を認識したはずです。それなのになぜ同じものを同じように見ることができるのでしょうか。
 皆さん、このことを調べるためにここでわたくしは勇気を持ってちょっと唐突にもなりかねない話題を持ち出させていただきたいと思います。レオナルドの絵画からは切り離された事柄のように思われるかもしれませんが、あにはからんや、そうでもないのです。
 皆さん、その話題とは、何を隠しましょう、数学であります。数学は、今日それ自体が自然科学の一分野ですが、物理学や幾何学などの各分野において理論を記述したり証明したりするのにも応用されております。それは数学に依拠することで、各人が独自に検証-計算-することができ、その上でなお合意可能性を失わぬからであります。
 これは本当のことなのか、なぜどのようにそうなるのか、実際にやって調べてみましょう。皆さん、ある人が、「5は素数である。これは正しい」と言ったとしましょう。彼はずいぶん自信ありげに主張しております。自ら確かめたからでしょう。さてわたくしたちは彼と合意できるでしょうか。
 素数とは1と自身でしか割れない数のことですから、5がそうなのかをひとつ検証してみましょう。1の次は2でしょうから、2でやってみましょう。2がふたつ、4です。5には足りません。2がみっつ、6ですから5と合いません。はみ出してしまいました。2では割れないようです。2の次は3でしょう。3ではどうでしょう。3がふたつ、6です。割れません。駄目そうですが、4もやってみましょう。4がふたつ、8です。まったく駄目です。4の次は5でしょう。2でも3でも4でも割れないようですから、どうやら、5は素数と言って間違いないようです。自ら確かめた今なら、さあ、わたくしたちは彼に言いましょうか。「わたくしも5は素数だと思う。これは正しいと思う」と。わたくしたちと彼とは、互いに独創的に思惟しながらも、不思議なことに合意することができました。