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オーパーツ-場違いなギルガメシュ叙事詩


 皆さん、いまや、『ギルガメシュ叙事詩』に注意を向けましょう。そうです、解読以来、世界最古の文学と冠されるところの、11枚の粘土板にです。この写真(http://kingofpeace.org/sermons2004-2005/gilgameshtablet.jpg)は、アッシュールバニパル王の王宮図書館跡で発掘された、第11の粘土板です。
 今日『ギルガメシュ叙事詩』と呼ばれる、11枚の粘土板で構成される物語は、メソポタミアの人々にはその冒頭句をとって、『すべてを見たる人』と呼ばれていました。わたくしはこの冒頭句に深い意義を見ています。ですからわたくしもまたこの物語を、『すべてを見たる人』と呼びたいと思います。
 さて、『すべてを見たる人』について論じることは、実はたいへん難しい問題を含んでいます。まず今日発見されている粘土板が、完全な形ではないという根本的な問題があります。いろいろの時代のいろいろの言語のいくつかの『すべてを見たる人』の粘土板を継ぎ合わせれば、それが11枚の粘土板によって構成されることははっきりするものの、それぞれの粘土板の欠損が少なくないために、再構成できるのは、全体の三分の二に満たないほどです。各国語、各時代の版ごとに、異文もあることでしょう。もうひとつの問題は、先にお話ししました通り、メソポタミア文明自体が、一度すっかり滅びてしまったことです。アッシリア語、アッカド語、シュメール語などの、楔形文字の解読には成功しました。しかしながら、『すべてを見たる人』のような、今日的な意味においても文学と呼んで何ら差し支えないような作品においては、それだけでは充分ではないのです。
 『詩経』の詩歌は、それが『詩経』としてまとめられた漢代には、その多くが、詩の意味のはっきりしないものとなっていました。これは『万葉集』にも言えることです。そこで詩経学、万葉学というようなものが生まれるのですが、それは詩歌が詠まれた背景にある習俗が、すでにわからなくなっていたからなのです。例えば詩経学では"興"と呼ばれるところの、暗喩表現があります。その事物や表現が何を暗喩しているのかがわからなければ、その詩歌の真意がわからなくなってしまいます。『詩』や『万葉』であれば、その文明は一応連続していますから、ある程度までは、往時の習俗や暗喩を推察できるでしょう。しかし『すべてを見たる人』においては、往時の習俗や暗喩を解明する手がかりは、ほとんどすっかり失われてしまっているのです。『すべてを見たる人』を愛する人は、きっとアレクサンドロスとテオドシウスを憎き仇と思っていることでしょう。ええ、わたくしもそのひとりであります。
 しかしながら、それでもなお、『すべてを見たる人』は、わたくしに強烈な、驚異と、感動と、示唆を与えます。ですからいまわたくしはあえてこの最初にして、最高であるかもしれない文学作品を、論じることにいたします。
 『すべてを見たる人』の成立は、少なくともその原形となるものについては、紀元前2500年頃と推定されています。そしてその詩には、『詩経』や『リグ・ヴェーダ』に見られるような、祝詞、託宣めいたものはほとんど見受けられません。神々が登場するものの、彼らはあたかもアリストテレスが『詩学』に書いたところの、良い悲劇の条件に倣ったかのように、"筋の外"に置かれます。それは『イリアス』さながらの、ハリウッド映画さながらのスペクタクルにすら満たされ、文学の原初的な形態-呪術-を留めておらず、極度の洗練すら感じます。それはすなわち、古代的呪術的な政治とも宗教ともすっかり切り離された、純粋な芸術作品のように見えます。
 ところで、紀元前2500年頃といいますと、例えば中国では殷どころか、その前の伝説的な夏王朝すら成立しておりません。三皇五帝の神話の闇の中です。インドにしましても、アーリア人はまだインド亜大陸に到達すらしていません。おそらく、ヒンドゥークシュ山脈の北側で行く手を阻まれていた頃でしょう。してみますと、『すべてを見たる人』の場違いな-この粘土板こそが真のオーパーツです!-驚倒すべき前衛性は、いったい何に負っているのでしょうか。わたくしが思いますに、それはすべてを見たるその人たる、ギルガメシュというひとりのウルク王個人の力に負っているのではないでしょうか。
 彼は神を拒絶し(第6粘土板、イシュタルへの侮蔑)、自らの努力で隕石から鉄を得て、斧を作り(第2粘土板、天神アヌの精髄を運ぶ夢、斧を発見する夢)、禁忌を破ってレバノン杉を切り倒します(第5粘土板、フンババ討伐)。永遠の生命の獲得には失敗し打ちひしがれるものの、ウルクに帰還する頃には、自らの力で不滅の生命の不可能を確かめた自負に満ちて、船頭ウルシャナビに対し、祖国ウルクをことほぐのです。「ウルシャナビよ、ウルクの城壁を登り歩み進め。基礎を調べ、煉瓦をあらためよ、煉瓦が焼き煉瓦でないかを。また7人の賢人がその基礎を置いていないかを…」(第11粘土板)
 そうして彼は探究の旅路を碑文に刻み、そこでついに不滅を得たのです。「すべてを見たる人。彼につき学べ…秘密を彼は見、隠されたものを彼は得た…彼は遥かな道を旅して労苦を重ね、ついには安らぎを得た。彼は碑石に苦難のすべてを刻み込んだ…」(第1粘土板)
 驚いた英雄であります。神々への畏怖の呪縛をひとり断ち切り、自由を獲得し、自らの力で真理を探究することの価値を、自ら証明し、碑文に刻んだこのウルク王こそが、最初の自然主義者にして最初の文学者と呼んで差し支えないでしょう。もしも、ギルガメシュが碑文を書いた碑石がウルクから発見されたなら、彼こそがムーサイの長として、文学の神殿に祀られるようになることでしょう。
 さて、今日のわたくしたちの主題であります、政治と芸術という観点からは、『すべてを見たる人』は、どう見えるでしょうか。わたくしは、その最後の場面、ギルガメシュが不滅の生命の獲得に失敗し、ウルクに帰還する場面に注目したいと思います。ここでギルガメシュは、ウルクをほぎ歌で称え、ウルクに帰るのです。そして後世文学作品として成立するもとになる詩歌を、碑石に刻みます。これをわたくしは、いったん共同体を捨てて探究の旅に出た彼の、共同体への帰還と、公共の善のための、探究の成果による芸術的創作と見なします。ここにわたくしは、政治と芸術との、理想的な関係を見るのです。個人は自由な探究の旅をしながらも、最後には公共の善のために、その探究の成果を芸術として創作し、公共の場で発表するのです。いま仮にこれを、政治と芸術のギルガメシュ的形態、と呼びましょう。この形態においては、政治と芸術、そして宗教とは、区別がつかなくなるでしょう。ただしそれは古代的な呪術、超自然主義に依拠した結合ではなく、自然主義に依拠した結合となるでしょう。それはただ善という語がかろうじて形容しうる、人間の行為です。そうです、わたくしにおいては、『すべてを見たる人』がそのようなものとして見えるように。
 さて、ここでひとまず、シュメールの昔からは離れて、近世へと一気にジャンプしましょう。