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導入-私的雑談


 気品あり、控えめで、探究する努力をいとわず、慈悲の効果を熟知し、苦難を諧謔と勇気をもって乗り越え、他者の言辞を自らに固有の感性によって聞きながらも、自我へのこだわりを離れた、紳士淑女の皆さん。
 今日は政治か芸術のどちらかについて話すようにと言われて来たのですが、わたくしはその両方ともを一緒くたにお話しすることを思いつきました。政治と芸術とはそもそも別個のものではなく、古代のある時期までは分離されていなかったこと、その分離は、ある点においてわたくしには正当とは思われないこと、今日完全に分離された両者を、わたくしたち自身の手によって引き寄せる必要があるのではないかといったことを、話させていただきたいと思っております。
 恥ずかしい思いもするのですが、初めに私的なことから話させていただきます。長らく、わたくしは東洋主義者であり、伝統主義者でした。つまりわたくしの学問は、ほぼ中国とインドと日本の古典に向けられておりまして、西洋-キリスト教圏-の典籍、そして近代から現代の"新書"については、敬遠しておりました-自然科学の書物についてはその限りではないのですが-それはキリスト教圏の典籍の表現に親近感を抱けなかったこと、今日の西洋的な文化の隆盛への反動、そして父母祖の生活があった上でわたくしがある以上、古典から先に勉強するべきだろうという、漠然とした、しかしわたくしなりに論理的な理由からでした。
 最近になって、この東洋主義的な、伝統主義的な方法での学問を続けてきたわたくしは、すっかり浮世離れしてしまったことに気づきました。カーテンを引かせていただきたい思いですが、友人と言ってひとりもおらず、理解者と言ってひとりもおりません。笑っていただいて結構でございます。と言いますのも、そもそもわたくしがこのような趣向で学問を進めましたのは、申しました通り主に反動からでして、ひとりの表現者として、独自の位置へ行こうと意気込んだゆえでございましたので。
 そうは申しましても、わたくしが独自の位置へ行こうとしましたのは、ひとり孤独を楽しむためではございませんでした-そして楽しくなどないのです!-わたくしは何かしら善をなしたい、人の役に立ちたいと思って、そのために他の人にできない表現ができるようになろうとして、独自の位置を目指したのでした。
 それでそろそろ、いままで反動から、独自の観点を養うという思念から、敬遠してきたものを、しっかり学ぶべきだと思うようになりました。わたくしの東洋の古典の勉強は、決して充分とは言えません。しかし少なくとも仏教については自分なりの見取り図を作ることができたと思いますし、中国や日本の古代については、心に景色を描くことができるようになりました。またインドを見聞した上で学んだインドの典籍の数々は、わたくしの中でずっと生き続けることと思います。わたくしのやや向こう見ずだったかもしれない意気込みは、しかし決して間違ってはいなかったと思っております。子供の頃、父の葬儀や、参加した地域の祭祀から感じたものを、わたくしは東洋の古典の中に発見しました。それはわたくしがそれらの典籍を理解する助けとなり、その理解は、今日のわたくし自身と、周囲の社会とを理解する助けとなりました。そして次に西洋の古典や、近代から現代を学ぶ際には、同じ時代の東洋との比較、今日の西洋的社会と古代の東洋との比較ないし歴史的経緯において理解することができるでしょう。もしも自分の置かれた状況と、自分とは何なのかとを知りたいと言う、わたくしと父祖ないし母祖を同じくする子供がいるとすれば、わたくしは東洋主義的、伝統主義的方法から始めることを薦めるでしょう。そしてもちろん、彼が孤独に感じると電話をかけてきたなら、すぐに自転車を漕いで彼の家へと遊びに行くでしょう。
 話を進めましょう。わたくしがことさら遠ざけてきたものがございます。皆さん、政治であります。TVや新聞、インターネットなどで、盛んにまくし立てられる、時事的な政治上の諸問題。わたくしがそれらを遠ざけたのには、いくつかの理由がございました。まず、余りにも多くの人がそれを語ること自体。次に、それが目先のことについて、賛成、反対、と言い合っているに過ぎず、厳しい探求から導かれる原理によって合意に到達しようとしているようには感じられなかったこと-いかにも、わたくしは原理主義者であります!-そして例えばエマソンが言ったようなこと。
 「現在の国家はどれも腐敗している。善良な人々はあまり忠実に法律に従ってはいけない。支配に対する風刺のうち、"政治"という語に伝えられる辛らつな非難に匹敵できる風刺はあるだろうか? この語はすでに幾時代にわたって"ずるさ"を意味し、国家はからくりの一種であることを暗示してきた」『Politics』1844
 また夏目漱石が言ったようなこと。
 「元来国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンにかける、めちゃくちゃなものであります」『私の個人主義』1914
 そんな印象が、わたくしにもまたあったからでした。しかしわたくしの反省は、これらわたくしが政治を遠ざけた理由自体の中にありました。政治を語る人々は、いったい政治ないしその周縁についてどれだけのことを学んだ上でそれを語るのか、という懐疑があったのですが、それを遠ざけるわたくしは、いったいどれだけのことを学んだ上でそれを遠ざけるのか、と。
 それで今まで手にとったことがついぞなかった、西洋的-大西洋圏的-政治哲学についての、古典と現代の書物とをいくつか読んでみました。それはわたくしの偏見の数々を打ち砕いてくれたのですが、ひとつの新たな懐疑をも生みました。皆さん、それは今日の政治においては、芸術がほぼ無視されているのではないか、そしてこの分離について、あまり語られてこなかったのではないか、というものです。
 皆さんもご存知の通り、政治と宗教の分離については、かまびすしいまでに論じられてきました。わたくしが新たな見解を付け足したところで、ただ騒音を大きくするだけになりかねません。しかし政治と芸術の分離について申し上げるなら、それは最も古い観点ではありますが、顧みられることが少ないならば、最も新しい観点となり得ます。それは見落とされていた、何かしらの善をわたくしどもにもたらすかもしれません。ですから今わたくしたちは、ひとつこの観点について調べてみましょう。