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秋子さんの秋刀魚

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 買い物から戻ってきた秋子さんは早速、料理にとりかかった。俺は手伝いを申し出たが、ただ焼くだけだからと、あっさり断られてしまった。それで仕方なく、大学で出された宿題に取り組んでいる。しかし、秋子さんの足音や包丁の音が耳に入り、だんだんといい匂いが漂い始めると、もう集中力は持たない。宿題を目の前に広げながら、気づくと何度も秋子さんの後姿を眺めていた。
 秋子さんは美人だ。親戚の贔屓目ではなく、心からそう思う。長い黒髪は丸顔によく似合っているし、微笑んだ時の優しい目尻は安心感を与えてくれる。スタイルだって良い。実を言うと、なかなかの巨乳でもあるのだ。俺にとって、秋子さんは昔から、自慢のお姉さんだ。
 そんな秋子さんが結婚したのは、つい一年前の冬のことだ。大学を卒業する直前に話が持ち上がり、あっという間に式を挙げてしまった。在学中に付き合い始めた恋人との学生結婚だった。受験シーズン真っ只中で、秋子さんと同じ大学に進もうと勉強していた俺には、正に青天の霹靂だった。憧れは、ついに憧れに終わった。
 秋子さんの結婚を機に、それまで近所に住んでいた秋子さんの両親も、秋子さん夫婦と同居することになった。秋子さんの旦那さんはどうやらお金持ちだったらしく、既に小さな一軒家を譲り受けていたのだ。まったく、夢のような話である。そうして、俺と母さんの傍から、とても大きく温かかったものが、瞬く間に消え去ってしまったのだった。
 俺はもう大学一年生で、秋子さんがいないと何もできなかった子供の頃とは違う。でも、それまで頻繁に我が家に来てくれていた人がいなくなってみると、後には寂しさしか残らなかった。母さんは相変わらず帰りが遅く、俺は相変わらず一人で留守番ばかりしている。八畳の居間が、やたらと広く見えた。
 その居間が、今は懐かしい香りで満たされている。
「お待たせー」
 言いながら、秋子さんが机に皿を並べ始めた。見事な焼き秋刀魚と味噌汁、炊き立てのご飯。付け合わせに、白菜のお浸しと買ってきたらしい沢庵が添えられている。自分の分の皿も運んできた秋子さんは、俺と向かい合わせに座り、にっこりと笑った。
「はい、どうぞ召し上がれ」
「いただきます」
 俺はまず味噌汁を口に含んだ。瞬間、目の奥が熱くなるのを感じた。危ない、泣いてしまいそうだ。
「どう、美味しい? 結婚してから毎日作ってるから、一年前よりも美味しくなったでしょ」
「うん、美味しい」
 目の前の秋子さんに、そう答えるのが精いっぱいだった。俺は手の震えを見られないように注意してお椀を置き、秋刀魚に手を付けた。秋子さんも俺と同じように秋刀魚を食べ始めるのが視界の隅に映る。こんがりと焼き目のついた皮を慎重に剥がし、骨を取り除く。苦手な内臓には箸を付けないようにして、俺はそろそろと肉を取り分け、口に入れた。
 ……ああ。やっぱり、そうだ。
「やっぱり秋の秋刀魚は美味しいね」
 秋子さんは言葉通り美味しそうに秋刀魚を食べている。肯きながら俺は、自分の頭の中に、途方もなく長い道を想像していた。俺はその道の始まりに立ちくしていて、秋子さんは一人でどんどん先へ行ってしまう。その隣には彼女の旦那さんがいて、秋子さんがどこへ行こうがどこにいようが彼女に影響を及ぼし続けるのだ。もう秋子さんは、俺のお姉さんではなかった。
「うん……美味しいね」
 秋子さんはきっと、この食事を終えたら帰ってしまうだろう。それも、爽やかな気分で。そうして旦那さんの下に帰り、何事もなかったようにして、彼のために料理を作るのだ。明日からも、その先も、これから、ずっと。
「美味しいよ……本当」
 俺は涙をこらえながら、一年前よりもずっとしょっぱくなった秋刀魚を、口に運び続けた。
作品名:秋子さんの秋刀魚 作家名:tei